それは、僅かに小雨の降りしきるある日。昼食とその片付けを終えた、午後のひと時。
居間にあるソファーに体を預ける緋那が、ある本のページをめくる。
じっとそれを読み進める彼女に、磨智が声をかけたのが、その騒動のはじまりだった。
認識の相違
本日のおやつであるマドレーヌ(風矢作)をもふもふと頬張る。
素朴な甘みが口いっぱいに広がり、至福っぽい心地に胸が躍る。うーん。美味しい。
そのほとんどは彼が(恐らく今頃彼の好きな子と一緒に)食べっちゃってるから数は少ないけど、それを言うのは悪いという話だ。(馬に蹴られて死にそうだしね、追及すると)
「…なあ、かなた」
「なにー? 抹茶味が失敗だったからってとっかえてはあげないよー。私は素直にプレーンを食べるんだ」
「いや、抹茶もかなりいける、ってそうじゃねえよ」
向い側に座ったメーがそっと身を乗り出してくる。そして、声をひそめて、
「緋那、なんかしたのか? なんかさっきすさまじく機嫌悪かったんだけど」
「ああ、喧嘩してた。君がここに来るちょっと前に」
「喧嘩? 誰と」
「磨智ちゃんと」
「喧嘩?」
「そう、喧嘩」
「喧嘩って…あの喧嘩」
「他にどんな喧嘩があるのさ…、ってあれか、痴話喧嘩か。それは君と磨智ちゃんがやることじゃん。
彼女が緋那ちゃんとするのは、ただの喧嘩だよ」
ちわ…と赤い顔で繰り返すメー。いちいち律儀と言うか、外さない奴だ。
けれど、すぐに真顔になる。
「そりゃ似合わねえことしてるんだな…」
「んー。でもほら、喧嘩するほど仲がいい言うし。喧嘩するにはある程度の仲が必要だよね、やっぱ」
「あー…それもそうだけど。緋那ってとことん温和だし。…磨智にめちゃくちゃ甘えぞ…」
「それでも許せないこともあったんじゃないかな…」
言って、マドレーヌの欠片を口に放り込む。むぐむぐと咀嚼して、あったかい紅茶で流し込む。
そろそろ暑くなってきたのでアイスが主体になってきたものの、やっぱりこういうお菓子はあったかいお茶で食べる方が好きだなあ、私は。
ほのぼのとそう思っていると、モノ言いたげな目線を感じた。
「…なあ、かなた。お前、それ聞いてただろ」
「うん。いやぁ、すさまじかった」
「じゃあなんで止めねえんだよ」
「私がうちの喧嘩をいちいち止めてたら、君と風矢君は会話できなくなるよ」
「いや、それとは別だろ」
「そうだねえ、別かもだけど。それでも、私がいちいち口だしても鬱陶しいでしょ」
「…そりゃそうだ」
メーは頷き、ぐいっと冷やした紅茶を飲み干す。
だが、その顔はどこか晴れない。なにかが喉に引っかかったような顔をしている。
「…そんなに心配?」
「心配つーか…珍しいじゃん。
一体なにしたんだ? 磨智」
「なんで加害者を恋人と断定するの、君…」
指摘されて初めて気づいたかのように目を瞬かせる。
一瞬気まずけな顔をして…すぐに開き直ったように胸をはる。
「だってどー考えてもあいつの方がやらかしそうだからな。しかたねえだろ」
「いや、まあ、確かに…。なにかしたのは彼女だけど。たぶん君なら気にしないだろうねえ…緋那ちゃんや私はすげえ気にするのだけど」
「え? なにそれ」
「彼女はね…」
思い出すと、少しだけ目頭が熱くなる。
やるせない光景だった。磨智は純粋に感想を言い合いたかっただけ、けれど、緋那もまた純粋にあの行為を楽しみにしていたのだから。
「推理小説の次の被害者、あまつさえ犯人さえ、ナチュラルにバラしたんだよ……!」
血を吐く思いで吐き捨てる私に、メーは「はぁ!?」と声を上げる。
「…それって、喧嘩の理由になるわけ?」
「十分すぎるだろう! 被害者はまだいいにしても、犯人まで! むしろこれがならなくてなにが理由になるの!?」
「他にも色々あるんじゃね?」
「ねえよ! 私もそれで泣かされたことあるぞ!」
「そのくらいで泣いたのか、お前…?」
「涙ながしたわけじゃないけど心で泣いたよ!」
そう、あれは遠い日の故郷でのこと。
町の書庫にて借りることができた、楽しみにしていたシリーズの最終巻一歩手前。それは人気シリーズで中々借りることができなかった。それでもやっとまわってきたその本は、決して期待を裏切らなかった。
けれど! なのに! だというのに!
「次のページでだれそれが死ぬよー、とかこの妹の子供が実は騙されてるんだよー、とか、あ、まだこいつ生きてるんだーとか、核心部分をずばずばと話されたあの時の悔しさは忘れねえ!」
しかも許しがたいことにその子はその本をかなり早い段階で読めていた。妬ましい。
「ともかく! 読んでるものをネタばれされるのはむかつくだろ! 喧嘩の理由だよ!」
「…あの二人がもめるってどれだけ深刻な問題だって一瞬心配した俺が馬鹿だった…」
メーはなぜか非常に悲しそうな顔をして黙り込んだ。
「…なにそのくだらねえ、って言いたそうな顔」
「事実くだらねえだろ」
言って、興味を失ったように紅茶のお代りを注ぎに行く。
むう。やっぱりこいつはネタバレを気にしない派だ。
そもそも物語を呼んでるとこ、あんまり見たことないな。マンガすら続きものだと途中でリタイヤしてるし。たまに雑誌を買ってきても見ているのは「写真が綺麗だった」とか「懸賞が楽しそうだった」とか、そう言う理由で、ほとんど文章は読んでない。
その点、磨智はどんな種類もわりと好き嫌いなく読むよなあ。種類関係なく。緋那はノンフェクションの感動モノとかが好きだよね。あと、さっき読んでた推理小説みたいなのもたまに読んでる。あくまで動機に重きを置いてるような、物語的なものだけど。
反対に、風矢はトリックが以外って評判なものが好きなんだよね…他は…お菓子作りの本だったりするんだよなあ、買ってきてるの。
ベムは…結構読んでる毎回ジャンルが違う。とりあえずかなりの確率で実用書…っていうか、初級手品がどうのこうのとか、楽しい日曜大工だとか、そういうのだよね…楽しくて読んでるわけじゃないかもしれない。あれは。でも、緋那が読んでた本とかは心底楽しそーに見てるなあ。ホント色々真性だなあ。
…それはともかく。
「本が楽しいのはその先が未知のことだからなのに。ばらされたらつまらないじゃん」
「…そうかぁ? 先見えないことなんて珍しくともなんともねえじゃん。なんでありがたがるんだ? お前、世の中で先読めることとかあるの?」
「…そ、それはないけど」
「なら別に本読まなくてもそう言うこと体験できるじゃん」
「…それは、なんか違う気がする」
違うというか、極論と言うか、なんだ、この違和感。
認識の相違というやつなのか。
「そうか?」
不思議そうに首を傾げる愛龍。
ふぅん。彼が本を好かないのは、ただ単に興味ないんだろうなぁ、と思っていたけど、そう言う理由なのか。
要するに、現実で手一杯だから、フィクションには興味がない、と。 なら私は彼から見れば本を読んで現実逃避してるようなものなのかもしれない。
それは、少しだけ羨ましい考え方。
現実で一生懸命生きてれば、んなこと考えなくてもいいのかな、なんて。
一瞬そう思いもしたけれど…
「…それでも私は一生本が好きだろうなあ」
「なにが“それでも”なんだよ?」
「いやいやこっちの話。でもあれだね、たまには色々読んでみると磨智に勝てるかもしれないよ? 本で仕入れたこと君で試してたりするし、結構」
「な…」
それなら読みたい、と動きかけたのであろう口は、すぐに溜息を洩らす。元々優しげとは言い難い目がじっとりと据わる。ガラが悪い。
「お前、それ、絶対嘘だろ…」
「そんな、私が君に嘘をついたことなんてあった?」
「……結構あった気が」
「気の所為気のせい。大事なことなので二回言いました」
「そこがすでに嘘くせえ…」
むう、と口を尖らせるメーは気にせず、私は最後のマドレーヌを口に運ぶ。
うん、確かに抹茶もいけるなあ。こう、香りが口の中に広がる感じ?
「…でもプレーンの方が好きかも」
「俺はどっちかつーと抹茶かな…」
ここでも意見が割れた。
まあ、このくらいの認識の相違なら、平和を脅かすものにならない。
皆違って皆いい―――その言葉を嫌悪していた頃もあったけど、もう、気にならない。
「平和だよな…」
「なんだよ、いきなり」
「いや、思った事口に出しただけだよ」
「ふぅん」
ああ、このまま平和な日々が続くといいなあ。
叶うか分からないからこそ、そんなことを思う。
口の中の菓子は、どこまでも甘くとけた。
なお。緋那と磨智は、夕飯の時間にはもうさらっと和解していたことを、一応記しておく。
彼女達にとっては少しくらいぎゃーぎゃーと言いあうのも仲良しの秘訣…なのかもしれない。