見上げた空は、高く澄み渡った青。
 青。
 彼女の瞳の色と似た色。
 けれど、彼女の色はもっと静かな色だと思う。
 静かな、もっと深い色。
 深く、その底になにがあるか分からないような色。
 浮かんだ言葉に、僕は小さく頭をふった。
 なんだかひどく遠く思えるその想像が嫌だったわけではない―――もっと切実に頭を悩ませることがあった。
 なぜ僕は……
 勝手に裏口から侵入した挙句、彼女の部屋の窓の下に座り込んでしまっているのだろう………
 空の青さが、眩しさが、今の僕には痛かった。

青く晴れた空の下

 家を出た僕は、68番地へ足を進めていた。目的は、小町さんを食事に誘うこと。
 それは、以前『滅多に誰かと食事を取ることはない』と言っていた時の彼女が寂しげだったから…といえば聞こえはいいけれど。要は僕が会う口実に使いたいだけだ。
 …いや、そんなことよりはどうでもいい。この状況に比べれば塵のように些細な問題だ。
 一応、弁解をするなら、玄関を避けたのには理由がある。
 外堀を、埋められたくない。だから、こっそり行動したかった。
 …マスター同士で盛り上がって、くっついてもいいじゃない、むしろ奨励する、みたいな流れになってしまおうものなら、なんかあっさり頷かれそうですごく嫌だ。 『御主人殿がそうおっしゃるのならかまいません』とか言ってる姿が目に浮かぶ。
 うちのマスターはメーの一件で交配に口を出すことにこりまくってるようだし、あちらの羽堂さんにしても今まで黙っているなら、今更口を出してくるとも思えないけれど。それでも、危険の芽は摘み取った方がいい。
 誰かに強制されるのではなく、選んで欲しいから。なにかの意志に従うのではなく、選んで欲しいから。だから、それがいい。
 それ以前に…そのためには、ちゃんと言わなきゃいけないことくらい分かっているけれど。でも―――…
 ………だからといって、これはないよなあ……
 窓の下だし。
 そう、窓の下だ。玄関ではない。
 窓の下にじっと座り込む男。不審な龍だ。それが女性の部屋を狙ってやってきたから余計に。
 …見つかったら間違いなく外堀は埋められなくなるだろうな。それ以前に、友人から格下げされるかもしれない。ストーカーに。…考えたら落ち込んできた。
 ああでも、このままここにいたら誰かに見咎められるよなぁ…。それは嫌だ、嫌すぎる。末代までの恥どころかたぶん末代産まないうちに死ぬ。恥ずかしくて。
 ぐるぐると悩んでいると、微かな音がした。
 そう、例えるなら、窓が開くような音。
「風矢さん?」
 開くような、ではなくまさに開いた音でした。
 ぎぎぃ、と音でも立てそうな動作で、座り込んだまま顔を上げれば、青い瞳に出会う。ただえさえ大きい瞳が、さらに見開かれている。
 うわあ、とても不思議そう。むしろ怪訝そう。
「……ご機嫌麗しゅう。小町さん」
 動揺の余り、話し方が実に微妙なことになった。
 そして、彼女もちょっと変な恰好だった。
 小さな窓から僅かに顔を出した彼女は、魔女帽子をかぶっていた。三角にとんがったあれだ。
 開け放った窓からは、なんだか薬草的な匂いがする。どうやら一仕事を終えて換気をしようすることろだったらしい。…どんな一仕事かは、まあ考えないでおこう。うん。その方が良い。
 それでも、胸の奥に、なんとも言えない想いが駆け巡る。
 …ああ…僕、なんでこんなのに惚れちゃったんだろうなあ、ではない。その格好に違和感を感じなくなってる自分がちょっと怖い。なんというか、毒されてる。…嫌じゃないのが不思議なくらいだ。
 …ていうか、魔女姿の人は住人にもいるんだけどな…、巫女服の上からそんなもんっていう異色の組み合わせは彼女だけだろうな…と思うと、こう、何とも言えない気持ちに。
 なんかシュールだ。魔女帽子の女の子と窓の下の変質者(ぎりぎり一歩手前、だといいな)
「…よいお天気ですね」
「え? ええ。暖かくて気持ちが良いです」
 考えなしに口に出した言葉に、案外普通な答えが返る。
 けれど、話の本題をそらすには至らない。彼女は不思議そうに首を傾げる。
「どうして窓の下にいらっしゃったんですか?」
 それは、当然の疑問だ。訊かない方がおかしいし、うっかりこんなところに入った僕がおかしい。
 けど、理由は言えない。…いっそ言えって話かもしれないけど、言えない。こんな形では。どんな形ならいいのかとかは言わない約束だ。
 さて―――どうしよう。
 そこに窓があるからさ?
 窓からあいさつするのが趣味だから?
 この窓が僕を呼んでいた気がした?
 うちではむしろ窓の方が玄関として使用されているんです?
 …ああ、どれを言っても変だ。変態だ。変態と言うか馬鹿だ。
 今僕は心底馬鹿だった自分を発見してしまったのだけど、あまり認めたくはない。
「小町さんの驚く顔を見にきた、というところですかね」
「まあ、本当ですか?」
 やっとの思いで吐き出したのは、嘘くさい、というか痛々しい言い訳だったが、小町さんは僅かに笑った。
 …うわあ…なんか変な罪悪感が…その顔が直視できない…
「ええ。…決していつも窓の下で待ち伏せしてるわけではないので、どうか信用してください」
 そこを信用してもらえないと色々困る。悲しい。
 悲痛で切実な思いに反し、唇はやけに軽い言葉を紡いだ。
「…それに、秘密っぽいことって楽しくありませんか」
 ぽつり、と付け足すと、小町さんはころころと笑う。
「そうですね。仲良しっぽくて素敵です」
「…それは良かった」
 ほっと息をつき、本題を思い出す。そうだ、僕はなにも窓の下で待ち伏せだけをしに来たのではないのだ。
「そんな仲良しな貴女にお話が」
「なんでしょう?」
「これから予定が空いてるようなら、お昼を食べに行きませんか?
 たいしたものではありませんけど、弁当を作ってみたので」
 にっこり笑って、ランチボックスを掲げる。
 はい、と頷く姿が、その、なんというか、とても愛しい。…魔女帽子かぶったオカルト娘だけれども。
「ところで、小町さんはどこか行きたい場所とかありますか?
 もしないなら、私の方で行きたいところがあるんですけど…」
「いえ、ございません」
「…そうですか」
 吐き出したのは、安堵のため息。けれど。
 ―――あるといって欲しかったな。
 僅かな苦さは、浮かべた笑顔の裏に隠れた。



 そうして、二人で立っているのは、とある山の中。妙に風が気持ちよい場所だ。…っていうか、山頂まで行くと、見晴らしよくて大人気。軽く観光地でもある。朝町の住人なら来たこともあるだろう。
 そんな観光地だけど、僕にはもう一つ意味がある。
「懐かしいですね」
「ええ。といっても…そんなに昔のことでもないんですけどね」
 かつて、彼女とここに来た。霊道浄化なるものに付き合わされて、ここに来た。
 彼女と共に訪れたという意味で、ここは観光地以上の意味がついていたりする。思い出の地とまではいかないけど。良い思い出があるのは間違いない。
 あの時、楽しかったのは本当だ。けれど―――あの時は、まだ、それだけだったのにな…
 隣をちらと見ると、僅かな風に煽られ、銀色の髪がさらさらとゆれる。日差しを受けてきらきらと輝く。
 ―――綺麗だなぁ。
 そう言えたなら良いのだけれど、口に出せたのは違う言葉。
「海でも良かったんですけどね。水龍ほどではありませんが、潮風というのが結構好きなので。
 でも、海ではまた貴女が転んでしまうかと思いましてね。こう、びしゃっと」
 その時のことを思い出したのか、小さく呻く小町さん。こちらを見上げてくる少し潤んだ瞳がちょっと楽しい。…言わないけど。
「風矢さんはたまに意地悪です」
「そうかもしれませんね。
 案外、貴女も気をつけた方がいいかもしれませんよ。貴女が気づかぬうちに意地悪をしているのかも、僕」
 冗談めかしたように言ってみる。…冗談では、ないのだけど。
 小町さんは、どこかムッとしたような顔をする。
「けれど優しい人ですよ」
 …前もこう言うことがあった気がする。あの時は、どうしたっけ? うまく思い出せない。
 何度言われても、居心地が悪い。なんだか騙しているようで、嫌だ。
 だから、曖昧に笑って、強引に話題を変えた。
「…ここの辺で食べましょうか」
 言いつつ持参した敷物を敷く。裾を捌いて腰を下ろす小町さんに、ランチボックスを差し出してみる。
 中身は、数種類のサンドイッチと、キノコとベーコンを適当に炒めた物、さっとゆでて塩をふったアスパラガス、隠し味にミルクを垂らした甘い卵焼き。 別の容器にはこれまた適当にカットして適当にマヨネーズをベースに作ったサラダ。 あまり立派なものでもなければ見栄えが良いわけでもないけど、彼女は感心したように息をつく。
「これは全部風矢さんが調理なさったんですか?」
「サンドイッチが無性に食べたい気持ちでしたので。
 卵焼き辺りが個人的に自信作です。って言うか他のものは手をかけてません」
「料理がお好きなんですね」
「好き…な方かもしれませんね。面倒なのであまりしませんが。
 でも、自分で作ったものはなにを作ろうと文句を言われませんから。そう言う意味では好きですよ」
 うちのマスターは料理が特に好きではない…というか、基本的に無精者なんで、そういうのが好きな緋那さんが台所の主と化している。
 けれど、彼女ばかりがそれを続けることもないので、たまに交代もしていた。その中で、僕はわりと台所に立っている方だ。昔は綺麗に巻けなかった厚焼き卵も今ならしっかり巻けるし。
「小町さんは?」
「恥ずかしながらあまり調理場に立つことはありませんね。簡単なものなら作りますが」
「へえ…食べてみたいですね。貴女の料理」
「でも、手の込んだものを作ったことはありませんよ?」
「それを言えばサンドイッチなんて手軽なもんですよ。
 …うまい下手じゃなくて、こうして外で食べるのって美味しいじゃないですか」
「ああ。そういうことですね。おっしゃる通り誰かと一緒に摂る食事は美味しいです」
 その機会は、あまりありませんけど。
 そんな声を暗に聞いた気がして、少しだけ嫌になる。気がかりと言うか、ひっかかる。
 けれど、その感覚にも慣れ切った。意識するまでもなく明るい声が出た。
「そう思うなら、もっと遠慮なくじゃんじゃん誘えばいいですよ。私でも、他の方でも」
「…そうでしょうか」
「そうですよ。
 そちらの方が楽しいし、一人で食べるの寂しくなったりすることだってあるでしょうし」
 続ける僕に、彼女は笑う。
 そっと袖で口元を隠して、ころころと。
「いつものことなので気にしていません。…それに全てのことは大宇宙の意志ですから」
 ―――そんなことが大宇宙とやらの意志なら無視すればいいじゃないですか。
 そう言おうとして、なぜか手が伸びた。
 きっと、口元を覆う仕草に苛立ったから。
 口元だけではなく、なにかを隠されているようで、嫌だったから。
 その存在が遠く見えて、嫌だったから。
「…風矢さん?」 
 驚いたような、上ずった声に安堵する。確かに握りしめた手が、同じ熱を持っていることにもほっとする。
 なにより、その声が自分を呼ぶことに、途方もなく満たされる。
 考えなしに行動したから、どうしたらいいのか分からなかったけど。それでも。それでも、幸せだ。
 …それに、彼女になにをすればいいのか、なにをできるのかが分からないことなど、いつものことだから。
 賢しげに一般論を唱えることには慣れている。けれど、それ以上のことはうまくいかない。
 なにかを大切なものを見つければ、自分の中にもなにかを見つけられるかと思ってた。
 大切なものを支えることくらいできると、そう思いたかった。
 けれど、きっと、そんなことはできない。
 そのことがじれったい。情けない。やるせない。
 …勝てない。
 物心ついた頃から聞いているという、その得体のしれない、けれど誤ったことはないのだという声に、勝てない。
「…小町さん」
「は、はい」
 焦ったような声にほっとする。ああ、ちゃんとここにいる。
 彼女に当たり前に聞こえる声は、僕には聞こえないけど。
 彼女は、ちゃんと目の前にいる。

 好きだ、と喉元までその言葉がこみあげた。
 けれど―――うまくできない。
 だって、伝えてどうするというのだろう。
 彼女にできることが見つからないのに。なにも、ないのに。

 喉が詰まって、手から力が抜ける。握りしめていた手が離れる。
「…なんでもありません」
「…そう、なのですか?」
 彼女は怪訝そうに訊いてくる。
 その頬が、少しだけ赤かった。…けど。
「ええ」
「…そうですか」
 きっぱりと言い切り、納得してくれることに胸をなでおろす。
 けれど。

 いっそ、問い詰めてくれればいいのに。
 卑屈な心が、ぽつりと呟いた。

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