幼い夢で目を覆った。耳をふさいで、そのままで。
 それなら幸せだと信じてた。
 それでも君は俺を呼ぶから。
 だから俺は夢から覚めた。

辿り着く先に求めるは

 その日、磨智が帰宅したのは、ここ数日の例にもれず夜遅く。
 もう夕飯はすぎてしまっているかなと思ったのだが、帰る気は起きなかった。
 だからと言って、なにをしてきたわけでもない。ただぼんやりと空を見上げて、ぼんやりと時を消費する。なにをするわけでも誰と話すわけでもない、無為な時間。
 なにをしようとしても、空しくて辛いのだ。
 いつまでこんな生活をする気なのだと、自分でも呆れ果ててしまうのに。それでもなにも変わらなかった。
 一体自分が何に傷ついているのかも実際のところよく分からない。
 失恋、ではない。彼への心は恋ではなかった。そうでなければならない。…恋だとしても、一瞬だけ心揺るがされた、あの花束を贈ってくれた彼はもうどこにもいないのだと、分かったのだから。
 そんなことを思いながら足を動かしていると、家に着く。
 明かりのついていない、暗い家。
「あれ?」
 そのことを怪訝に思いながらも扉に手をかける。
 カギはかけられていなかったので、ともかく中に入ろうと決めた。
「…なにこれ」
 呟いた瞬間、視界が開ける。居間に明かりが灯る。
 同時に、腕をつかまれた。
 はじかれるように顔を上げる。
 そして、目に飛び込んだ姿に声を失った。
「おかえり」
 低くなった声で告げられて、磨智は一層呆然とその顔を見つめる。
 自分の知る中でこの特徴を持つ者は彼しかいない。確かに今目の前にいる龍は彼だ。
 それでも、やっと取り戻した声は驚愕の色に染まっていた。
「…メー君?」
「ああ」
 銀髪の青年は頷く。
「……背……どう、したの?」
「伸びた。約10pと半分くらい。視界変わったな」
 そう、そこにいるのは確かに彼なのだが、一瞬判断を迷った。
 その髪とややつり気味の琥珀の瞳はそのまま。だが、随分と背丈が伸びた。声も低くなり、顔の輪郭からも子供特有の柔らかさが消え、少々に印象が異なる。
 そこにいるのは決して少年ではなく、20歳には届かぬと見える青年だ。
「…なんで、いきなり…」
「色々あったからな」
 遠いところを見るかのような顔をして呟くメー。
 よく見知ったその表情に、磨智の意識も徐々に落着きを取り戻す。
「どうして君一人なの? …みんなは?」
「俺が頼んだ」
「頼んだ?」
「お前と二人だけにしてくれって。
 今頃他の奴らは…どっかで飯食ってる頃かな」
 淡々と答えるメーに、磨智は笑みを浮かべる。
 その内心を隠さない、口元だけの笑みを。
「…なんで、私と二人きりになりたがるわけ?」
「話したいことがある」
 冷めた表情にも彼は怯まなかった。
 これ以上なく真剣な顔できっぱりと告げる。
 ―――知らない龍みたい。
 その表情と相まって、磨智はそんなことすら考える。
 それでも、彼は彼だ。よく見知った―――ずっと見ていた彼。目線に込めた想いを自分でも忘れてしまうくらいずっと見つめていた彼だ。気持ちの整理がつかない今、どうしても見たくなくて逃げ回っていた彼だ。
「…私にはないよ」
「俺にはある」
「そんなの、勝手に言ってればいいじゃない。どこでもいつでもいいじゃない」
「嫌だ。今がいい」
 ぐ、とその腕に力が籠る。
 その力に、扉を開けた瞬間つかまれた腕のことを思い出す。
 磨智は抗う。弱々しく掠れてしまいそうな声に無理に怒りをこめて。
「なんだったいうの? 手、離してよ。
 …そもそもなんでつかんでるの」
 自分の腕を握りしめる彼をキッと睨みつける磨智。
 そうして、いつもよりずっと高い位置にある顔に改めて驚く。
「逃げられたくないしな。
 たまには形勢逆転もいいだろ?」
 妙に飄々と笑うメーに、自然と声が低くなる。
「…逃げる? どこに」
「そんなもん俺が知るか。でも、逃げられる気がしたんだよ。俺のいないとこに行っちまいそうな気がした」
 その言葉に声が返る前に、メーは続ける。
「全部聞いた。緋那に。
 殴られたり怒られたり大変だった」
「全部…?」
「あのボロい花束は俺がお前にやったものだってこと。それをお前が大事にしてくれてたこと」
「…そう」
 笑みを絶やさず答える。磨智は内心怒鳴りつけてやりたかった。
 それだけのことを全部なんて言わないで。
 私がどんな想いをしていたかなんて分かろうともしなかったくせに。
 今さら、分かった顔なんてしないで――――!
 僅かに口を開く。そのまま叫び出してしまうかもしれなかった。
 けれど、それより早く腕を捕えていた彼が離れる。そして、
「なあ、磨智。話、聞いてくれ」
 両側から頬を手で挟まれて、磨智は今度こそ言葉をなくす。無防備に憂いに満ちた顔をさらす。
 間近で見るその顔は、やはりいつもと違う。
 けれど、何度も見た顔だ。こんな風に近くで言い合うことも常の出来事だった。
 なのに。どうして。こんなに。
 顔に熱が集まっているのが分かる。自分は今どんな顔をしているのか。
 そこに考えがいたった瞬間、バシリとその腕を振り払った。
 俯いて頬に触れる。熱いと感じて、泣きたくなった。
「磨智」
「…触らないで!」
 名を呼ぶ声と共に近づく気配に、磨智は声を上げる。
 その声が震えていることが分かる。けれどそれしかできなかった。
 震える声に、メーは一瞬顔を歪める。諦めるような表情をして、それでも彼女を見据えた。
「…嫌だ」
 言い切って、一歩進む。
「今までそうだったじゃねーか。触るなって言ってもお前は来るし。嫌だって言ってもどこまでも追いかけてくるし。なら俺がお前の希望だけ聞く筋合いはねーよ」
「……!」
 顔を俯かせたまま肩を震わせる磨智。
 それでも、メーは言葉を止めない。いつかのように、制されることはない。
「いいか、俺はなぁ…」
「聞きたくない!」
 肩に手が触れ、逃げ場をなくす。刹那、茶の瞳から涙がこぼれた。
「今さらなにを言うって言うの!?
 やめてよ! 私はもう嫌なの! 嫌!」
 なにが嫌でなぜ泣いているのか、磨智自身にも分からない。
 けれど、それは止まらない。床に点々と散らばりしみこむ。
「君は、どうせなにを言ってても………その相手のことなんてどうでもいいんじゃない。
 マスター以外に、皆そうじゃない」
 嗚咽と共に吐き出された言葉に、メーは答えない。
 どうでもいいと思ったことはない。けれど、彼女にそう見えていたのなら、それが彼女にとって真実だ。
 けれど、続いた言葉に目を見開く。
「例えばさあ、今私のいるところに全然知らない龍がきても一緒でしょ?
 少しさみしがって…それでオシマイ、でしょ。
 ううん、最初から私以外がここにいて、私とは違うことしても、君はきっと私にするように接して、おんなじ気持ちになって…それだけ、なんだよ。
 最初から、私が私である意味はなかったんだよ」
 ぐい、と顎に手がかかり、顔を上げさせられる。
 そこにあったのは、片手で顎をとらえ、怒りに満ちた彼の顔。
「んで、んなこと言うんだよ…」
「だって、そういう風に見える」
 肩に食い込んだ指に、隠すものを失った涙に構わず、磨智は続ける。
「だって、君にとって、皆『仲間』で。それだけじゃない」
「…確かに、今ここにいるのはお前じゃなくても良かったかもしれないよ…
 でも、今ここにいるのはお前だろう! それとも他の誰か、か!? 馬鹿だのアホだの女装しろだのやかしいのが他にいたとしても、あんなにしつこく追い回す馬鹿はお前以外いねえよ、いるってえのか!? 違うだろう!
 それなのに、そんなこと言うな。変な仮定ばっかしやがって、一人でうじうじ悩むなよ!」
 矢継ぎ早に叫んだ後、メーは小さく息をつく。
 怒りで朱に染まった顔が冷静さを取り戻してから、じっと眼を閉じた。
「お前がいなくなっても同じなんて言うな。最初から別の奴でも同じなんてやめてくれよ。これまでのこと、全部意味がねえみたいじゃねぇか……」
 言ってから、顎から手を離して、もう一度肩に置く。
 泣きだす寸前のようなその顔を、磨智は確かに見た。
 胸を満たすのは確かな驚き。
 ぎゃーぎゃーとわめいてい涙をにじませるのは何度も目にした。けれど、こんな風に静かに悲壮な顔をしたことなど、これまでなかった。
 それでも、今更、なのだ。
 今更、なにを言われても遅い。どんな顔をしていても同じ。
 そう思わなければと強く思う。
 離して、と言おうとした。
 目を合わせて、そう言って、終わろうとした。けれど。
「でも、君はなにを言ってても結局…」
「結局、なんだよ」
 けれど紡いだのはひどく寂しげな呟き。
 なにかを惜しむかのような響きのこもった自分の声に嫌気がさす。
「……結局」 
 結局、諦めることなどできてはいないと思い知らされるようで、悔しかった。
「結局、メー君は、マスターが一番じゃない」
「ああ、一番だよ」
 これまで、必死に隠し続けた言葉にあっさりと頷くメー。
 その反応が分かってたから、彼にだけは隠さなければならなかったのに。
 体の奥底から湧き出るような悲しみに、静かな疑問が混じる。
 それでもこんな風に簡単に認めると思っていなかった、と。
「一番最初に俺を呼んだ奴はあいつだし、あいつを一番に呼んだのは俺だ」
 彼女から目をそらすことなくメーは笑う。
 それこそ少し前なら決して浮かべない、自嘲の笑み。
「なんのために生きていたかっていったら、あいつのため、なのかもしれない」
 けどな、と彼は言葉を切る。そして、
「もう止める」
 きっぱりと言って、磨智の両肩に置かれた手に力をこめる。
 同じように、その声にも力があった。
「もうとっくに一人で立てたんだ、お互い。
 だから、もう、いいんだ」
 光龍の腕が動く。肩から、背中へ。
 彼は抱き寄せた地龍ではなく己に言い聞かせるように、もういいんだと繰り返す。
 離れるのは辛い。
 けれど、彼女と『このまま』でいればきっともっと辛くなる。
 それに。
「磨智」
 彼女の体に回した腕に力がこもる。
 痛みを感じるほどの強さ。
 けれど磨智はその声の強さにこそ動きを封じられる。
「自分じゃなくても同じなんて言うな。どっか行くのもやめろ。
 …一緒に生きてくれ、俺と」
 その声は小さく密かに響く。
 僅かに震える言葉を紡ぐ唇が、全身が熱を持つのは、どうしよもないような羞恥の所為。
 気づくのが遅すぎること、そしてなによりこれから告げようとすることを考えると、一層熱は上がる。
 それでも、その熱はあの日、磨智の涙を見た時のように心を冷やすことはない。
 この熱を大切にしたいと、失いたくないと、思う。だからここにいる。

 彼女と出会った時―――出会わされた時、感じたのは失望。否、絶望。
 なにを言われても、道具と言われたような感覚はとれなかった。なにもかも嫌になって、訊きたくなくて目を閉ざし、一人膝を抱えた。
 涙ながらに「そうじゃない」と訴える主人の言葉を冷静に聞けるようになるまで、それなりの時を有した。
 ―――その間。
 連れてこられた地龍に随分冷たく接してしまっていた…接することすら拒んでいたのに気付けたのは、主人との仲が修復された後。
 だから、謝った覚えは、おぼろげながらにある。
 それでも、よく覚えていない。傷つけたから、謝る。それは当たり前のことだから。
 ただ、あの時も、自分は彼女の笑顔が“可愛い”と思った。
 それだけは覚えていた。

 けれど、それから続いた日々は彼女との関係を曖昧にしておくことを許した。
 好きだとか恋だとか意識するのが怖かった。
 そんなことを気付いてしまえば、きっと自分は変わるから。
 彼女のことをどうでもいいと思ったことなどない。
 ただ、ずっと怖かった。
 向き合うことが怖くて、同じくらい失うことが怖くて。
 変化を嫌って、すべてを知らぬふりを押し通そうとした。
 つい先日、彼女の涙を見るまでは。 

 変化を止めて目を閉ざして、失うものがあることは覚悟していた。
 それでも、彼女を失うかもしれないと意識した途端調子が狂った。
 どうしよもなく戸惑って、そのままではいられないことを思い知り。
 思い知れば知るほど辛くて、どうしよもなかった。

「…かなたとお前の違いなんて、ありすぎて言えない。けど、でかいのは一つかな」
 その名前を口に出したとたん、ぴくりと彼女の肩がはねたのが分かる。逃げようとしているのか、背中に止まっていた爪が鋭く食い込む。
 けれど、中途半端なままにはしないと決めた。
 もう、すべてと向き合うと、彼は決めたのだ。

 どうしよもないと思った。
 ―――けれどきっとそれすら『逃げ』だ。
 散々考えて、考えて、自分ですら忘れていた枷を思い出した彼は、もう苦しむだけではすまなかった。
 傷ついて、悩む間に、彼女がどこかへ消えていきそうな気がして。
 だから決めた。向き合い、答えを求めようと。
 同罪だと嘆く主に同意しなかったのは、気遣いではない。
 彼女が己を想って傷ついたというならば、その感情がなんであれ、自分が背負おうと決めた。そうしたかったから。

「俺はあいつに死ねと言われても死なない。あいつのためには死ねない。けど」
 腕の力をゆるめて、磨智の顔をのぞき込む。
 なにがなにだか分からないと言いたげな顔に、俺だっていきなりよく分かってないとこぼしたくなる。それでも頑張ってるんじゃねーかと言いそうになるその口を強引に閉じて、再び開く。
「けどお前となら、死んでもいい。だから」
 一語一句かみしめるように慎重に、それでも決して詰まらせることなく。
 涙でぬれた瞳をのぞきこんで、告げる。
「それまで、一緒にいてくれ」
 口の中がカラカラと乾く。
 ムシがいいと貶されてもいい。もう遅いと詰られてもいい。
 ただ、伝えたかった。
 この体の枷を壊した彼女にだけは、伝えたかった。

「……好きだ」

 誇りを持つに値するものと問われて浮かんだのは、ずっと隣にいた相棒の顔。
 それでも、欲しいものと訊かれて浮かんだのは、今目の前にある彼女の笑顔。
 だって、ずっと。
 俺はお前が好きだった。

 言葉にしきれないもどかしさに眉を寄せる。
 信じられないものを見つめるような眼に耐えかね、もう一度抱き寄せた。

 傍にいて、笑っていて。
 失うことを考えるだけで、俺の全てを崩した君だから。そんな風に思えるのは君だけだから。
 どうか、もう一度笑って。

 彼女からの答えが返るまで、彼はずっとその腕を緩めなかった。

  目次