「…かなた、大丈夫か?」
「……ぅん……」
殆ど吐息のような小さな答えに、俺の焦りはひどくなる。
「出口は…どこだ……!」
ある日突然、かなたと俺で、光だけがある奇妙な空間に迷い込んで、どれくらい時がたったのだろう。
分からないけれど、水も食料もない空間で衰弱した主人に、もう、歩く力は残っていない。手持ちの食料も尽きて、俺の背中で細い息を繰り返している。
苦しげに息がつまる音を聞く度、人と言うのは脆いものだと、俺は無力だと思い知らされる。その度に心が痛い。
そうして、どれだけ歩き続けていたのか。
本来光龍の糧となるはずの光に心が毒されていく気がする。
どこまでも続く変化のない空間に、狂いそうな心地を味わう俺に、あいつは言った。
「…おろせ…契約、とく…」
「は?」
思わず足をとめる。
なにを言っているんだ、こいつは。
「私が死んだ後…たとえ…ここから出られても…遭難、で餓死は蘇生対象にならなないだろ…
龍はマスターに縛られる。私がそのまま死んだら…君も死ぬか…それとも、永久に死ねなくなるか…どっちにしろ、やべぇだろ…」
だから、契約を解くというのか。
俺以外の龍の、そして人の助けも呼べない得たいの知れない空間で。
「馬鹿なこと言うな! …なら俺が殺す! 龍による殺害なら、蘇生対象に…」
「そんなことしてみろ。君の身柄の保証はできなくなる。
…私だって、…町の人だって、庇いたくとも庇いきれるかどうか…。動機の証明はできない。
曖昧な理由で殺人を犯した龍を生かしておくのは…それを盾にした殺人をよびかねない。…だろう?」
それに、私との契約をとけば、君だけはここからでれるかもしれない……
掠れた声で告げられた言葉に、彼女を背負った背中にぞっとしたものがはしる。
―――こいつは本気だ。
背中から生まれた怖気は全身を支配した。
「ともかくなにか食え。せ、せめて水、いや、肉…どっかに…」
かなたを背中から降ろして、周囲を見回しながら、はたと気付く。
水も肉もここにある。
血液という水分と―――俺の肉。
「…かなた」
迷いは、なかった。
きっとこいつは生きて帰れば俺を呼び戻す。
けれど、俺では死んだこいつをよびもどせないから…だから、俺は。
「…メー?」
怪訝そうに俺を見つめるかなたに、ニッと笑いかける。
こいつが罪悪感を感じることのないように、穏やかに幸福そうに。
「確かに、マスターに死なれるのはやばい。そうなると、俺達も幽霊みたいなもんだから」
「……メー……? 君、なに、考えてる……」
かすれきった声を無視して、爪を伸ばす。そして―――……
「美味いかどうかはわかんねぇけどさ…たぶん、食いがいはあると思うよ。
だから、絶対出てくれ。こんなわけのわからない場所から」
「やめ……っ、やぁあっ…嫌ああああああああぁぁぁっ!!」
「…かなたさん…」
つぶやいて、苦しげな寝顔の上の冷えたタオルを取り替える。
「…どうして、こんなことに…」
三ヶ月もの間行方不明だったかなたさんは、一人で帰ってきた。
黒く汚れて擦り切れた服につつままれた身体はぎりぎりまで痩せ細り、虚ろな瞳をして。
身を汚す『黒』は彼女と共に姿を消したメーの血肉なのだと、彼女が告げたのは帰還から三日たった後だった……。
あの日からふさぎ込み、寝込み、ベッドから動かなくなったマスターの部屋に足を踏み入れた。
そして、その痩せた体を上から押さえ込んだ。白くあせた首筋に爪先を突きつけた。
抵抗してもいいはずなのに……彼女はなにも言わず、こちらを見つめる。
しかたがないとで言うように。
いや、まるで請うように。
「…死んで、楽になりたいの? マスター」
「メーをよびもどすまでは、しねない」
言う割りに、彼女はここ数日何のリアクションも起こしていない。復活の儀式に使う器を探すこともしない。
…けれど、そんなことはどうでもいい。
「…呼び戻す? そんな必要ないよ。だってここにいるじゃない、メー君は」
言って、マスターの腹を撫でる。
クスクスと笑う私を、マスターは見ようともしない。見ているけど、見ていない。
…ああ、苛々する。
「…あなたのことはできるだけ殺さないよ。ただ、あなたの腹を開かせて欲しいだけ」
「…かたきうち?」
「まさか」
なにやら勘違いをしているマスターに、にっこりと笑ってみせる。
「ねぇ、マスター。メー君がいなくなって気付いたの。
私、メー君のこと、大嫌いだった」
考えるだけで気分が悪くて、泣きそうになるくらい、大嫌いだ。
「鈍いし、馬鹿だし、考えなしだし……本当、鈍感でヤになっちゃう」
今、心から言える。
マスターのことだけ考えて……マスターのために死んで。そんな馬鹿な彼が、大嫌いだ。
「だからね―――いなくなっても、平気だよ。本当。清々する」
笑いながらも、苛立ちは増す。
そして、その苛立ちの原因をぎっと睨んだ。
「けど、そこにいるんだよ………」
ぐっと腹においた手に力を込める。
かなりの力をこめているのに、マスターは眉一つ動かさない。
「メー君は、マスターの中に、いるんだよねぇ……」
その事実に苛立つ。
苛々して、狂ってしまいそう。
そんなのは嫌だから、嫌だから、その原因を排除しなきゃ。
だから、彼のいる腹を裂いて、その破片を抉り出してしまおう。
「…そんなになっても、まだ人を苛立たせる…大嫌いだよ…」
大嫌いだから、君の大切なものを壊して。君も壊してやりたいの。二度と私の前に、戻ってこないように。魂ごとボロボロに……
暗い決意を込めて振り上げた爪を、マスターはぼんやりと見つめていた。
その瞳は、私のほうを向いているだけで、私を見ない。あの日から、誰も見ていない。
「本当、苛々する…っ!」
爪を振り下ろす。
視界いっぱいに、赤が散った―――……
「ああ……あ…ああ…」
私は、とめようとした、だけ、なのに。
どうして、こんな。
磨智の精神がひどく傷ついているのに気付いて、ほんの少し前まで、慰めていたのに。
私が、しっかりしなきゃいけないのに、こんな。
「…ま、ち…?」
呼びかけても、彼女は答えない。
手の平で顔を覆う。と、べっとりと赤いものが付着した。
「磨智…磨智……磨智………」
これは血だ。彼女の血だ。
私が、殺した―――
「ああああ、あ……」
喉が震える。視界が揺れる。
「あ…ああ…」
「…君は悪くない」
うめき続ける私に声をかけたのは、かなた。
彼女の声を聞いたのはひどく久しぶりな気がした。
「私が最初に狂って―――だから、この子に止めてもらおうとして…傷ついてるの、放置して…二人で終わるつもりだったのに…
君まで、巻き込まれたんだ…君は巻き込まれただけ、悪くないんだよ、緋那」
「わるく…ない…?」
悪くないなら、どうして大切な友人を殺せるの。
私が悪い。悪い。悪い―――
悪く、ない、なら……?
ああ…きっと、狂っている。
「だから、君は、私を殺せばとまれるの。元通り」
かなたは甘く囁いて、大きく手を広げた。
「……お前を……」
殺す、虚ろに繰り返して、ゆっくりと足を進める。
「…どうして、こんなことになってしまったんでしょうね…」
僕はつぶやく。
ベッドの上の彼女は答えない。
―――あの惨状を誰が作り出したのか…内心、分かっていた。
分かっていたから、僕は嘘をついた。
彼女と主人を殺したのは、外部からの強盗だということにした。
龍をつれた男が二人を殺したのだと、必死になじみの聖職者の間をかけまわって…
彼女だけは蘇生した。
その心は、すでに壊れきっていたけれど。…独りになるのは嫌だった。
「…かなたさん…春が、来ますよ。桜が咲きます」
じっとなにもない空間を見つめる彼女に、僕は毎日話しかける。
「また、皆で、見に行きましょう? ねぇ」
冷たく細い腕を手にとって、ねぇ、と繰り返す僕に、彼女は答えない。
それでも、僕は繰り返す。
小さな部屋にあるのはただ、気の狂いそうな静寂。そして、すえた匂い。
光龍は死に、地龍は死に、炎龍達は姿を消し、主人は狂った。
僕もまた、いつまで正気でいられるのか……分からない。
否、今正常である自信がない。
だって、ほら。
もう、呼吸の音は聞こえない………