ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……
気の遠くなるような雨音に意識を溶かして活字を淡々と追う。
内容を消化吸収しようという気は皆無。彼女の判断基準からして、それは消化不良を起こしそうな類の本だ。
それは、甘ったるい恋愛小説。遠距離恋愛を描いたもの。
例えればぬるくなったおかげでくどさを増したホットココア…と、全てを読んだ上で彼女はよくわからない感想を抱いた。
気の遠くなるような雨音を背景に、清潔感漂う白い部屋。ベットに半身を起こし窓を眺める、腰まで届く長く滑らかな髪の美女。
そしてその美貌も生来の無表情が祟り、堅苦しさばかりが目立つ。雨を眺めるようすは、ぼんやりとでも形容できそうだ。
それはあるいは不治の病を抱えているようにすら映り、同時に物語の挿絵も顔負けの美しい風景。彼女は不意に一人呟く。
「…甘い…」
甘すぎて甘すぎて自分にはいっそ苦々しい。
呟いて、瞼を伏せる。
聞きつけたら、たぶん来るだろうけれど。そのくらいの甲斐性はあると信じておきたい。
けれど信じていても、まだ『待ち人』が来ないのは事実。
その時間はむごく暇。だから、読み終えた小説の一説を口にする。
「『不安になるくらいなら、別れましょう』」
自分もそんな風に言えればどんなに簡単だったか。楽だったか。
「『僕はきっとあなたを幸せにできはしないから』」
苦々しくも甘ったるいその一説に、知りすぎた声がだぶる。
俺じゃ君を幸せなんかにできないよ。
だから…………………―――
「……寝ましょうか……」
思い出したら腹が立ってきた。彼はいつも独りよがりで我侭で自分に迷惑をかけるのが生き甲斐なのではなかろうかと疑うくらいのことばかり言うから腹が立つ。苛立つ。
甘ったるい物語には、飽きた。だから少し寝てしまおう。そうして、夢を見るのだ。
―――彼は、口を開けば軽口ばかりで、鬱陶しいくらいにべったりなくせに、
そこにいる実感がない。もうずっと一緒にいるのに、あの瞳はいつまでも未来を見ない。本当に――――頭が痛い。
私の『恋』は吐き気がするほど甘く苦々しいから、夢だけはせめて―――
彼女は未来に続く『夢』を強く想った。
やたらとニコニコしている男がやたら無表情の女を、恋人v とおめでたい調子で紹介したのは記憶に新しい。
あまりに疑わしかったので、確認すれば。
『一応形式上は、と付け加えておきます…完全に成り行きですよ。ちなみに一日三回は別れたくなります』
至極うんざりと同時に慣れた調子で彼女が言った言葉は否定ではなかった。
結局のところ『恋人』なのだと。
誰もが認めていたことなのだけれど。
―――それは、激しい雨の降るある日のことだった。
いつものメンバーで仲良く(?)昼食を摂っているときの話だ。
「はい?」
希羅は口に運びかけたイカフライを、ポロっと箸ごと落とす。
「…へぇ?」
雅もサラダをつっついていた手を止め、固まる。
「…ふーん」
慶はずずううう、と味噌ラーメン(2杯目)の汁をすすり、
「あ。オレ、もう一杯追加ー!」
手をぶんぶん振って3杯目を注文。
「お前な……いや、期待してない。いいんだ勝手に食ってろ」
こめかみの辺りを抑えながら、竜臣が小さく呟く。
「…まぁ、ふーんぐらいしか言えないことな気もするね」
流が苦笑しつつ相槌を打った。
けれどそれを馬鹿にされたと感じたのか否か。慶はごく自然な口調で言う。
「なんだよ、それ。オレだって妊娠の意味ぐらい分かるぞ。赤ん坊が出来るんだろ?」
妊娠しているらしい、と。内容はそれだけ。
誰から始まったかはもはや知れない。噂とはそういう物だ。
「それにしても…もう少しリアクションの仕様があるんじゃないの?」
「そーかァ? いーじゃん。智華ならちゃんと育てそうだし」
呑気そのものの意見を述べる。
そう、妊娠疑惑がかかってるのは芹野智華。まぁ相手はあの人だろうと。
というより万が一それ以外の場合、血の雨が降る可能性があるので否定したい…が本音だ。
「………………まぁ…………おかしくない…おかしくないのよね、きっと…………」
希羅はそう気を落ちつけるように繰り返した。
「……とりあえず、遥霞に似てくれないならなんでもいい。もう哺乳類じゃなくてもいい」
竜臣が廃れた笑みで呟く。
あの二人に似るのならどちらにしても計算高い子供になりそうだ…似れば、だが。
「妊娠ねェ…大変だな…」
雅がぼんやりと呟く。
それだけなら良かった。
けれど彼女はゆっくりと、なおかつなんでもないことのように、
「なぁ、子供って、どーやって出来るんだ?」
その発言に周囲は凍りついた。
話題の当事者の片割れは、机に突っ伏していた。
自分のさぞ無様であろう表情をどこにも晒したくなくて、机に突っ伏す。
―――子供、ね。…確かに、ここ三日医務室で寝泊りしてたけど。見舞い断られるのは…いつものことだからな…気にしてなかった。
「……子供、ねぇ……」
声に出して呟いてみても、湧き上がるのは実感より苦々しさ。妙に混沌とした感情。
そんな彼が聞いたのも『噂』だ。心当たりは……しっかりとあるわけだが、智華本人には確かめていない。
―――だってそれは、あまりにも……
その先を自分でも考えたくなくて、ふと思考を過去に泳がす。
最初は、恐らく憧れ。その嘘の無い心に憧れた。日々を重ねるうちに感じたのは、恋情。ずっと彼女の側にいたくなった。その先は―――
離れてなくてはいけない。彼女は俺の側にいてプラスになることなどないのだから。
彼女は俺などいなくとも、いない方がきっと幸せに生きる……だから俺さえ手を放せば。
離レタクナイ。彼女ヲ壊シテデモ縛リ付ケテシマイタイ。
彼女ノ心ヲ踏ミニジッテデモ、ソウシテ憎マレルコトスラ本望。俺ダケヲ見テクレルナラ。コノ腕ニ彼女ガ掴メルナラバ。
正常な思いと、狂気を孕んだ想い。どちらも心から願うこと。
「…我ながら矛盾してるな」
自覚しても直らないのだから、なお悪い。
愛情とはなんだろう。
考えれば考えるほど、嫌になる。坩堝にはまる。
「……俺は……」
―――そんなもの、わからない。
それは空気を震わせず胸のうちだけで消え、心にさらなる痛みを広げる。
不安定に揺れる視界を振り払うように空を仰ぐように顔を上げ、窓ガラスを見る。
それに映った己の表情は、想像通り、壊れた笑顔とでも形容できそうなもの。
潤みの欠片も無い青と黒の両の目。崩れた微笑。
アンバランスでひどく無様なその表情は、彼女が最も嫌う表情だと思い出して、遥霞は一人嗤う。
凍りついた空気をまず破ったのは、希羅。
「……あんた、いくつ?」
「十七」
「それで…本気…よね。勿論」
「? ああ」
きょとん、とした様で答える。
希羅は頭痛が酷くなった。
「だから雅は僕のこと黙ってベッドに入れたりするんだね」
「…あんたそれいつの話?」
「……。猫の姿でだよ?」
にっこりと愛らしい笑顔が逆に怪しい。
―――なんで私の周りには常識知らずというか…こんな奴しかいないのかしら…
類が友を呼んでいる―――そんなことを彼女は一切考えなかった。
「……流ってさ。実は純情?」
「雅に嫌われるようなことはしたくないからね…」
「え? 今、好かれてんの」
「君は俺を怒らせたいの?」
「ゴメンナサイ。」
流に極上の笑顔で微笑みかけられ戦慄する慶。
「で、どうやったら出来るんだ? 医学的なもんは判るんだか…」
「ど、どうやったらって…言われても…」
希羅とて別に知らないわけでない。
ただ好んで口に出したくないし説明しろといわれても困る。
「…竜臣、パス」
「いらん」
「なによ。こーゆーことは引き受けなさい。最年長」
「嫌だ。都合のいいときだけ最年長にすんじゃねぇ」
引きつった笑顔とこれ以上ない渋面が睨み合う。
ぎすぎすとそんな音の聞こえてきそうなやりとり。もとい、厄介ごとの押し付け合い。
「年が関係あるのか?」
「あんまりない気がするけどね」
二人に聞こえないようにつっこむ慶との白蓮。
「全くもう…煮え切らない童顔ねっ! ほら、言いなさい!」
「童顔っつーなって言ってんだろっ」
とか言う彼の意見も心も無視で雅の正面に立たされる。
内心で舌打ちすると、雅の知的好奇心満載な目とばっちりと出逢う。
「……子供は」
仕方なしに腹を括ったように口を開く。
「子供は……」
濃い茶の双眸は見つめていると吸い込まれそうで、今はどこまでも真摯。
「こ……ど……も……は……だ、な……………。言えるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
叫ぶと同時に、背後の希羅を思い切り突き飛ばして逃亡。食堂の中からドアに向かって猛烈にダッシュ。
ちきしょーどーせ童顔だよどーてーだよ! 悪いかぁ―――っ!?
一心不乱に走り去る彼の形相はどこか恐怖で引きつっていた。
「なんで逃げるんだ…」
雅にその行動が理解できるはずもない。
「竜臣って…なんかやな思い出でもあるのか…そういうこと…?」
むしろ他の誰でも理解できない。
「…今年の甲斐性なしランキングは奴が1位ね…」
「どこで編集してるの? そんなもの」
一同が呆然とする中、水を得た魚がいた。
「ねー雅v そんなに気になるんだったら俺が手と」
「あんたは黙とっれっ!」
しっかり雅の手を握りつつその先を聞かなくとも予想できそうな発言をする流に希羅渾身のつっこみ(という名の暴力)が決まる。
「雅〜。流のことなんて希羅さんに押し付けて僕と部屋行こ♪」
そうこうしいる間に、青年姿の白蓮も動く。
「ちょ…押すな白蓮」
「あんたもその手を離さないと切り落とすわよ?」
目を据わらせ、彼女の怒りに呼応するかのごとく不自然な光沢を放つ箸を片手に言う希羅。それは確かに箸だのに、切れそうだ。
「…オレも逃げちゃおっかなぁー…」
始まった騒ぎから取り残された慶は、とっとと逃亡した竜臣を少しだけうらやましく思った。