―――とりあえず、確かめなければ。
 そう思ったから、手元にある仕事は早々に片付けた。
 これからなにか依頼が来たとしても、問題はない。
 聞きたいことは、ただ一言。
 とても、簡単なことなのだから。
 胸のうちで繰り返す。
 通いなれた道をぼんやりと歩みながら思うのは、己の両親…実母と実父のことだ。

 思い出せない。
 母親から注がれた愛情は憶えている。確かに愛していたという自信もある。
 それでも、もう。その姿は忘れた。
 忘れられない。
 自分と父親との共通点を見つけるたびに嫌になった。最初は、嫌ってわけではない。けれど……
 どうしよもなく憎くて仕方がない。だからこそ忘れられない。いつでも鏡を見れば酷似した顔がそこにはある。

 ―――時を重ねれば重ねるほど、この存在が重い。

 胡乱な思考が紡ぐのは、いつだってそんな言葉だ。
 遥霞は、ため息一つの後に、医務室のドアに手をかけた。

 お見舞いだよ〜♪ と常の調子でやってきた遥霞に智華は静かに一瞥する。
「…余計具合が悪くなるから来るな…と言ったはずですけど」
 言いつつも、読んでいた本を閉じる。
「あは。ちゃんと三日間守ったじゃん? 俺にしては快挙だよ?」
 智華は満面の笑みを浮かべる彼を見て、何度か瞬く。
 そうして、おもむろに口を開く。
「…噂…耳に入ったようですね」
「…うん」
「…それで、何か言いたいことは?」
「……親やっぱ俺?」
「他にいるとでも?」
「いるわけがないね。冗談だよ」
 ―――いつもならそんな冗談、言わないでしょう。
 そう口に出しかけて、止める。代わりに、
「……覚悟していないとは言わせません」
「…んな無責任な事はしてないよ」
 言葉のわりに、その表情は気だるげというに相応しい。整った顔に落ちる影は、深くて暗い。
「じゃあ」
 なにか言いかける智華を遮り、
「そのくらい理解している。可能性を軽視していたわけでも、それを無視していたわけでもない。俺を誰だと思っている? 
 それこそただ一度の戯れで生まれ落ちた命、だ。覚悟もしていた。いつかは……避けられない事だったと、解っている。」
 淡々と、機械的とすら言える勢いで言葉を紡ぐ。
 そして真っ直ぐに見つめてくる智華から顔を背けて。絞り出すように呟く。
「でも…俺は…俺じゃ…駄目だ……」
「……そう……」
 智華は俯く。長い栗色の髪が元々希薄な表情も、口元も隠す。
 だから。
 やっぱり…そうなんですか…
 と。音を伴わず呟いたこの言葉など気づくはずがない。
「―――でも、誤解です」
「は?」
「誤解です。私は妊娠なんてしてませんよ」
 きっぱりはっきりすっぱりと。清々しいほど余韻を残さずに。いとも簡単にそれは否定される。
「は? え…? なんでっ!? だって…」
「落ち着いてください。食欲不振の理由はそれだけだと思ってるんですか?」
 面白いぐらいに動揺する遥霞に淡々とした口調で告げる。
「その……ドクターは……」
「過労気味なだけです。確かに原因は、最近、どっかの馬鹿と無茶な仕事こなしてた所為かしらと思ったりしますけど。
 …あなたがここに来る前に、噂は耳に入りました。
 …その場で誤解を解いても良かったけれど…少し反省して欲しくて。一芝居うってもらったんです」
「は…反省……!?」
「あなたを困らせてみたくなったんですよ。たまには振り回されるほうの気持ちが分かったでしょう」
「……」
 う…っ。と小さく呻き、表情は固まる。
「…これを機に少しは態度というものを改めて下さい」
 静かな提案にも、答える声はなく、しばし沈黙が落ちる。
「誤解…誤解か」
 辛うじて智華にだけ聞き取れるような力の無い声。
「そう、なのか……」
「―――少しは頭、冷えましたか?」
 しかし、遥霞はなにも言わない。力の無い様子で、じっと目を伏せる。
 そうして、不意に紡がれた言葉は、妙に乾いていた。
「……君は、子供、欲しいと思う?」
「…何を今更。私は必要性を感じないならあんなことに応じません」
 あからさまと言ってしまえばこの上ない言葉で答える。
 答えながら智華は気づく。否、気づいていた事を確認するといった方が良い。
「あなたは怖いんですか?」
「…なにが?」
 華やいだ笑顔で応じる。が、十年以上の付き合いの智華はそんなもので誤魔化されない。
「子供……できることです」
「……そうだね。俺別に子供好きでもないし。
 それに君って子供とかいたら俺のことほっときそーだし〜俺と過ごす時間減りそうだし〜」
 指を折って悲しそうな顔をしながら言う。しかし。
「怖いんですか、と訊いているんです」
 強い声は暗に茶化さないでと告げる。
 遥霞は小さくため息をつく。そうして、淡々と明るい声で、
「…だって、笑っちゃうと思わない? この俺が父親? お父さん父さん親父パパfather?」
 クスクスと、笑みをこぼす。俯き加減で、そうして笑いながら、肩を震わす。
「―――タチの悪い冗談だ…」
 ―――父親はなにしてくれる存在ですか?
 わからない、知らない。
「……冗談にされては、私が困ります」
 智華が苦々しさの滲む調子で言う。
「確かに今回は冗談です。けど可能性はゼロじゃない」
「そうだね。
 良くわかってる…」
 ゆっくり呟きながら、前触れもなく長い髪を一房手に取り、唇を寄せる。

「…………俺は君が好きだよ…………」

 愛情など信じられない。そんなものはいつか薄れてしまう。
 だから君だけには繰り返す。想いが薄れないようにと。
 どこまで届くかなど知らない。けれど…失うことなど認めたくない。

 ごく微かな甘い香りを感じながら、瞼を伏せる。
 目を合わせることは出来ない。そうすればきっと滴がこぼれる。それを厭うから、遮断する。
 ―――俺は逃げてばかりだな…
 自嘲しながらも、続ける。唄うように、
「だから、君に殺されるなら本望だ」
 紡がれたのは、冗談や揶揄の欠片もない言葉。
 智華はそんな遥霞から目を逸らさずなにも言わない。眉一つ動かさないその表情から、感情は窺えない。
 重い沈黙が、室内を満たす。
「…重いんですか?」
 沈黙を破る声は静か。静かに静かに波紋を広げる。
 遥霞は伏せていた瞼を持ち上げる。
「まだ…重いんですか?
 …自分自身の存在が、そんなにも辛いんですか?
 未だに思ってるんですね? 自分がいなければ…と…」
 繰り返し問いかける声に答えるのは力ない眼差しのみ。
「そこまで重いことですか? あなたのご両親のしたことは。…不義の子だのなんだのといわれ続けた昔が、そこまで…」
「そんなものどうでもいい…ただ…
 俺は、産んでくれとも育ててくれとも言ってない」
「……なら、あなたは……まだ、消えてしまいたいと…そう、思うんですか?」
 硬い声の問いに、クス…と笑う声だけが答える。
 それが答えだ。
「……勝手なことばかり言わないでください」
 その声は低く、完璧なまでに冷ややか。
「以前も同じことを聞きました」
 記憶の底からそれは蘇る。
『俺じゃ君を幸せなんかにできないよ。
 だから、殺して欲しくて。
 俺は君を放せない。でも幸せになどできない。なら、だから…もう…俺はそれ以外望まないんだ』
 吐き気がする。
 彼はそれより昔から、死にたかったのだろうけれど。自分がいなければいいと、ずっと思っていたのだろうけれど……
「私は伝えたはずです」
「殺さないって言ったねぇ。確かに。アレは十六の頃だから、六年弱前ってとこ?
 だからホラ。君の気も変わったかなと思って。アンケートみたいな?」
「…くだらないことしか言えないなら黙ってください」
「くだらなくないでしょ」
「それなら言い方を変えましょう…黙りなさい」
 低く冷たい声で言いながら、きつい眼差で睨む。深緑の瞳に宿るのはゆるぎない怒りの色。 
「今更何を言っているんですか? あなたが綺麗に散れるわけないでしょう?
 昔と今は違うでしょう? …ここだってあるでしょう? いつまでもメソメソするくらいなら違う道を選べば良かったでしょうに……選んだのは、あなたです」
 遥霞の昔をよく知っているからこそ、その言葉は容赦がない。
「それと…選んだのは私でもあります」
 声の高さは変わらない、ただ少し柔らかな響きが混じる。
「わざわざ二人でいるのはなんのためです……無視するのは自由ですが、わからないなんて言ったら怒りますよ」
 ゆっくりと手を伸ばす智華。その細く白い手が静かに頬に触れる。
 これを折ってしまったらどれだけ楽か。
 何度そう思ったか、遥霞にはもう分からない。
 ―――違う。

 折ろうが縛ろうが、首に手をかけてさえ、彼女は何度でも臆することなく遥霞を抱きしめた。
 だから、もう、己の手で傷つけることなど、できない。
 触れるのすら怖いのに触れずにはいられない。
 どうしたらいいのか、もう、分からない。

 それなのに、彼女はいつでも迷わない。
「人は誰も傷つけないで生きるなんて無理ですよ。弱いものなんです」
 触れた頬は乾いている。それなのに、そこに涙があるかのように拭うように触れる。
「だから私が一緒に背負ってあげます」
 どこまでも淡々と告げ、彼女は微笑する。
「……君、は……」
 ―――そうやっていつも俺を許すんだね。
「馬鹿、だ」
 言って、触れていた腕を取り、己の胸に抱きこむ。そうして、そこにあるぬくもりに安堵する。
 一切の思考を放棄して、ただ酔いしれる。
「そうなんでしょうね。馬鹿に馬鹿といわれるのは心外ですが」
「……簡単に認めないでよ……」
 ―――俺でいいのか? 本当に、俺でも……
 いいわけがないのに。きっと相容れないものなのに。平穏も彼女の愛する者も奪ったのは自分なのに。
 とくとくと脈打つ感覚に柔らかな感触。それは泣きたくなるほどに愛しい存在。
 空っぽの自分に意味を与えて、疎まれるだけだったこの身に触れてくれた彼女。
 ここまで胸を震わす女は彼女だけ。彼女しかいらない。
 心から、そう想う。
 思いながら、腕に今までと反対方向に力を入れる。
「!? ちょ…」
「え、なぁにぃ〜?」
   焦りを含む声に、実に白々しい声が答える。
「ちょっと…なんですかこの体勢はっ?
「さぁ、なんでしょ?」
 復活した遥霞の変わりに解説しよう。俗に言う、押し倒されている体勢だ。
「なにを―――なに考えてるんですか!?」
「なにって……ん―――…だから、ほら、俺も今回のことで色々考えたんよ。
 それでぇ〜、今ぁ〜子供の一人ぐらい智華が喜んでくれるなら、俺もちょーとは努力しようかなぁ…? って結論に」
「そういうことを考えてくれるのは構いませんが努力の方向が違うような? それはもう十分でしょう?
 ……ともかく! 放しなさい! 放して!! ここがどこだと思ってるんですか!?」
「ふむ…」
 一瞬、思案するような間を取り、
「ああ―――ベットの上だよねェv
 浮かべるのは、それはもう素晴らしい笑顔だった。悪戯を思いついた子供の笑みようではあるが、その思想は子供のそれではない。
「なんであなたはそう物事を歪曲してとるんですか!? 
 ふざけるのも時と場所を選んでください!」
 真っ青になって抵抗する智華。もはや紅くもなれない所が哀しい。
「ふーん。それって時と場所によっては抵抗しない…って聞こえるんだけどなぁ」
「……あなたという人はっ……」
 降りしきる雨より数段冷たい声音。怒りを抑えて震える抑揚。
 医務室に鈍い打撲音が響き渡った。


 まだ、色んな意味で痛む頭に手を添えながら、智華は歩く。
 ―――とりあえず…誤解はとくべきですね…この時間なら食堂辺りに人が集まっているでしょうから…
 そこへ行こう。そう歩きながら、少しやりすぎたかしらと思う。

『でも…俺は…俺じゃ…駄目だ……』

 そう告げたあの顔は。とても辛そうだったけれど。泣きそうだったけれど。
 けれどやはり……たまにはこのくらいがいい薬だ。少しは人の気苦労を思い知ればいい。

「私はあなたでなければ嫌だと言うのに…」
 本人にそう言ったこともなければ、聞かせる気もない。

 欲しいものがある。欲しい人がいる。
 彼でなければ嫌なのだ。きっと切り捨てれば楽で清々しいが、幸せなど程遠いから。

 ―――今はとりあえず目の前の問題の解決ですけどね…
 智華は無意味に騒がしい食堂へと足を踏み入れた。



「あ。智華〜」
 慶がデザートの杏仁豆腐を堪能しつつ、ぶんぶん手を振る。
「慶君…皆さんは…なにをやっているんですか?」
 智華の眼下には、なんだかもう全てが鬱陶しいとでも言うような力ない眼をした雅。眼が笑ってない笑顔の流と白蓮。殺気立つ希羅。―――恐らく智華が来たことに気づいていないだろう。
 ちなみにその一団に近づきたくないとでも言うように、食堂には彼らを中心に妙な空間が広がっている。
「…オレもよくわかんねぇよ。
 でもアレだよ。アンタが妊娠したって聞いたから、子供は無害だとイイなって話になって、雅が子供の出来方訊いたら、竜臣は逃げて雅は天然で流と白蓮が喧嘩おっぱじめて、二人ともヘンタイだから希羅がキレてるんだよ」
 ぽつぽつと語りながら杏仁豆腐を平らげた彼は、次の胡麻プリンへと手を伸ばした。
「………そうですか」
 その光景が目に浮かぶようだ。
「とりあえず…私は妊娠してません」
 控えめかつはっきりと告げる。
「へ? そーなの?」
「じゃあ誤解か?」
 慶と雅が素っ頓狂な声を上げると、騒いでいた三人もぴたりと止まる。
「お騒がせしてすみません」
 誤りながらも、智華は、その噂を故意に消さなかったことを黙っていた。
「いや、別に…誰も大して気にしちゃねーだろ?」
「まぁ…なんてゆーか…誤解だったってことだよね」
「ええ。ただ少し過労気味で寝ていただけですから」
「ふーん…じゃ、こーして出てきたってことは元気なわけね?」
「まぁそれもありますけど…」
 少し言葉を切った後、涼しい顔でさらりと、
「少し、ベッドの必要な人が出たので空けてきたんですよ」
 誰であるかと原因はご想像にお任せします。
「結局子供ってどうやって出来るんだ?」
「な…なんでまだ気にしてんのよ…」
 ぽそりと呟く雅にげんなりとした顔で答える希羅。
「あんなに騒がれたら嫌でも気になるぜ?」
「本当にそんなこと気になるんですか? 雅さん」
 その前に知らなかったんですね…と、どこか感心したように言う。
「気になるつーか…訊くと誰も答えてくれねーから、気になるな」
「そうですか」
 そして、不意に微笑む。見惚れる程に綺麗な、余計な感情をそぎ落としたような微笑。
 その表情は、一瞬、雅から流へと動いて、すぐに戻った。
「そういうことは、雅さんが『子供産んでやってもいいかも』と思うくらいの人が現れたら自然にわかるんじゃないんですか?」
 年下の少女に送るのは、柔らかな声音と眼差し。
「俺は産む気なんてないぞ?」
 痛いらしいし、と雅。
 しかしその言葉に応じる声も一切迷いがない。
「その場合はそれでいいんじゃないんですか? 一生わからなくとも」
 それは流石にいかがなもんだろう。
 突っ込める者はいなかった。
「? そうか?」
「ええ。実際十七年間知らなくて困ったこと、ありましたか? ないなら、それでいいと思いませんか? 知らなくとも全く困りませんよ。保障します。人生知らぬが華と言うじゃないですか」
 清々しげな微笑が妙に怖い。
「まぁ、確かに困ったことねーな…」
 ―――この気迫はなんだ…?
 半ばそれに押され首を縦に振る雅。
「それで納得するのか?」
「…どーゆー保障なのかしら…」
「聞いちゃいけないセカイじゃなーい?」
 かみ合っていない会話…というより、各々の感想を述べる。
 とりあえず纏まったと言えばそうなのかもしれない。
 この厄介な議案から離れられるならなんでもいいのが本音だが。
 けれど流は一人微妙な表情を浮かべる。
「……」
 一瞬だけ眼が合ったあの時。
 その目はあるいは牽制をしているようで、あるいは見守っているようで……
「…ライバルが多いってことかなぁ」

 流の苦笑交じりの呟きは、雨音と喧騒に消えた。

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