それは、部活を終えた帰り道。
 写真部とは名ばかりのおしゃべり会のような時間を終えて、軽い足取りで家に向かう。そんな時。
興澤(おきざわ)さん」
 後ろからそうやって呼ばれて、びくんとしながら振り返る。
 夕方だけどまだまだ明るい、夏の校舎。
 そこに立っているのは、その、わたしの彼氏。好きな人ってよく目があるからだろうけど、かっこいい。応援部の学ランがよく似合って、爽やかな感じ。
 あ、でも優しくてね。すっごく明るく笑う人でね。そのあたりが好き。
 ―――そう。
「今帰り? 送っていくから、待っててよ。話もあるから」
 わたしは、彼の笑顔が好きだった。今も、好き。
 なのに。だけど。
 暑さと関係のない汗が、じっとりと背中を流れた。

 正直に言うと。
 最近わたしは、彼が怖い。
 怖いんだけど、その。やっぱり一緒に歩いてると、雨が降ってるしねとか言って、こっちに車の雨水はねないような位置を陣取ってくれる優しさにときめく。濡れたら寒いもんね、って言っちゃう笑顔が好き。
 うん、やっぱりわたし、この人が好き。
 好きだから、困ってる。
「あの、真木彦(まきひこ)君、話って…?」
 困ってるけど、それだけじゃダメ。
 恐る恐る口を開くと、彼はとろけるように笑う。
「今日、すっごく仲よさそうに喋ってた彼、だあれ?」
 とろけるような表情と、甘ったるいほどの声。
 だらだらと汗が流れる。かたかたと肩がふるえる。
「ああ、そんなにおびえなくても。浮気なんてしてると思ってないよ? ただ知りたい。やましいこと、あるわけないよね? ねえ。
 ねえ。答えて」
「ま、真木彦君!」
 けれど、彼の言葉にこわさは吹っ飛ぶ。
 わいてくるのは、今まで感じてたのとは違う怖さ。
「ち、違うもん! たぶんだけど、それ後輩で! 浮気なんてしないよ!
 わたしは…わたし…」
「興澤さん」
 ぶんぶんと首を振って否定するわたしの肩に、ぽんと手が置かれる。
 責めるわけではない、ただ優しいだけの力。
 …それが彼のすべてじゃないって、わたしはもう知ってる。でも。
「真木彦君が好きだよ…」
 でも。それでも。
 浮気の言葉は悲しくて、じっと顔を俯ける。
 ぐっと握った拳が震える。
「…能々子(ののこ)さん」
 だから、だろう。
 くいと顎を持ち上げる手を、拒むことはできない。
「なら、証拠。見せて?」
 そっとひかれた手を振りほどくこともできずに、つれていかれた場所は。
 ガヤガヤとこみ合った、カラオケボックスだった。


 わたしは選んだ部屋の椅子に腰掛ける。…うたうのが目的ではないから、照明を落としたまま。
 そんな中で立ったままの彼は、穏やかな笑顔のままだ。
「能々子さん」
「真木彦君……」
 名前を呼ばれたから、わたしも彼を呼ぶ。そして、とりあえず座ろうよ、と。言おうとしたんだけど。
「違うよね?」
 強い口調で言われて、びくんと身体が震える。
 目をそらす。
 そらしたところで、ほっぺのあたりに強い視線を感じる。
 強い、強い意志のこもった目。
 その目が、とても好きだ。
 とても好きだから。
 とても好きなのに。
「…………こ、この…………こ、の…」
 泣きたい気持ちを抑えて、震える舌を動かす。
「顔」
 そうしているのもやっとなのに、さらに顔をあげろと言われる。
 立ち上がったままの彼を見上げる。
 見上げてしまうと、視界が歪んだ。涙が浮かぶ。
 でも―――…
「ぶ…ぶたやろう……?」
「もっと感情をこめて!」
「無理だよ!?」
 でも言わなきゃ許してくれないのが分かるから! 頑張って言ってるのに! 良くわからない文句をつけないでほしい!
 っていうか、なんで豚よばわりで喜ぶの!? 体脂肪率を気にする女の子っていうか、わたしに対する、あてつけ!?
 …って、まえ叫んだら。そうじゃないって言われたから、困ってる。
 ちなみに椅子に座らない彼氏がおもむろにわたしの足のあたりにうずくまって…その、跪いているのも、困る。いやむしろ、土下座かなあ。前この体勢で「踏んでほしい」とか言われたなあ…
 ……泣きたい。
「もっと冷たい感じに豚野郎と吐き捨てればいいんですよ!」
「やだ! なんでそんなことしなきゃだめなの!」
「だって、浮気じゃないんでしょう!」
「浮気なんかしないもん!」
「けど僕は大層不安だ!」
「は、話しただけで!?」
「ああ自分で異常だと思うよ! だから治したい! なら罰でも与えてもらわないとね! だからさあ! もっと頑張って!」
「そ、それが目的だって言うなら鼻息荒くしないでよう! 怖いよう! きもいよう!」
「うん今のはちょっと…いい」
「ま、真木彦君のばかあ!」
 叫んで、いまだに膝を付いている彼を立ち上がらせようとする。
 なのに、てこでも動かない。それどころか床にはりつくような体勢で、顔だけあげてくる。何度体験しても、なんなのこの状況。
「浮気じゃないなら、僕を縛って囲って安心させてね」
「し、縛ったら痛いじゃない…。囲うってどこによう…わかんないけど痛いじゃない…やだよ…わたし真木彦君いじめても楽しくないもん…」
「僕は楽しいのに」
「楽しまないでよ!」
 そんなんが楽しいのはやだよ。普通の恋人がいい。
 普通の恋人だったのに。
 どうしてこうなっちゃったんだっけ。
「まあ、それでもいいよ…」
 ちょっと天井のあたりを見ながらしみじみと思い返すわたしに、落ち着いた声がかかる。
 はっとして彼を再度みる。…まだ床にはいつくばってた。
「放置プレイ、か………」
 挙句頬まで染められた。もう…もう………
「違うよ! 違うの! うわあんうっとりしないでよう! もう! もう!」
 もう駄目だと思いながら、ぽかぽかたたいたらそれはそれで嬉しそうな顔をされました。
 もうどうしたらいいのか分かりません。

 わたしの彼氏はとっても優しくて、爽やかで。
 わりと嫉妬深くて。それで。
 俗にいう、Mらしいんです。

 もう、どうしよう。ねえ…!  わたしは、普通に、普通な、真木彦君が、好きなのだけなのに。
 …もう、ちょっと、泣きたいの。




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