とある少年の―――寮にあるテオフィルの自室のベッドに転がって、夢魔の少女はぼんやりと思いだす。
―――生まれたのは、たぶん3年ほど前。
ずっとずっと、この学園のある崖の麓の町にいた。
けれどある日、それに飽きて。おいしそうなにおいにつられて、この学園を訪れ―――それなりにおいしくやっていたけれど、こんな男がいるなんて。
『……男も女もダメなら両性が好きなのかしらアレは』
まったくもって、理解できない。こんなことは今までなかった。
豊満な胸の中を疑問でいっぱいにしながら、夢魔は唇を尖らせた。
3
クリーム色のワンピースに身を包んだ少女は、ごろりごろりとベッドの上をころがる。
とはいえ、実体化をしていない今、そんな動作に意味はない。シーツが皺をつくることもないし、少女が洗い立ての布の心地よさを味わうこともない。
けれど彼女はごろごろと転がる。そうして気でも紛らわせていないと、おかしくなってしまいそうだった。
『なんで…っ』
憤りを込めてつぶやく。べしべしとベッドもたたく。実際は、その手はスカスカと透けて、なにもつかまない。だが、気分である。
彼女は叫びたい気持ちで、なにかをたたいてやりたい気持ちだった。
主にこのベッドの主をたたいてやりたい気持ちなのだ。
『なんで落ちないの! あのおバカは!』
夢魔はぎりりと歯を鳴らす。音を伴わない、形だけの歯ぎしり。
けれど、そこにある思いは本物だ。実に本気の憤りだ。
彼女が生まれたのは―――彼女が覚えている限りで、季節を三回繰り返したほど。
その間、彼女は気ままに生きていた。
この崖の上の学園の、麓の町。小さく、それでもこの学園のお蔭でモンスターの脅威からは解放された町。
そこはとても長閑で、綺麗な町。
彼女はそこを気に入っていた。今も気に入っている。しかし、問題があった。
そこは―――若い人間が少なかった。
少し前に、若者を中心に流行り病があったのだ。
それからというもの、どうにも活気がない。若いモノが極端に減った。
若くなくとも彼女は気にしないが、若いモノの方が好みではあった。
なにより、妖しく淫靡な夢を見せても、その気にならないものも増えた。
それは―――彼女にとって、実に由々しき事態だった。
少々精を啜らなくとも、自分が生きていける自信はあった。
けれど、それはつまらない。スカスカのお腹を抱えて生きることなど、御免だった。
だから、この学園に誘われた。
距離が離れているからだろう。流行り病の影の薄い、この学園に。
『…最初は楽しかったわね』
なにしろ数が多いし、禁欲生活を強いられている所為で簡単にひっかかってくれた。
この人気のない学園でどんな手段を使ったのか―――おそらく門番に金銭を握らせたのだろうが―――女を連れ込んでいる者もいたが、たいていは実に簡単に落ちた。
久しく感じなかった満腹に、夢魔は満足だった。
満足で、けれどそれもすぎてしまえば単調で。飽きてしまった。
『……それがこれよ』
ふん、と鼻をならして、ごろりと転がる。
実体化をといた今の彼女に、モノは触れない。ベッドに寝転ぶこともできない。実際はそんな風に見えるように浮いているだけ。
少女は夢魔。夢魔にも色々なタイプがいるが、彼女は本来、夢の中にあるモンスター。こうして現実の世界にいる時は、幻なのだ。
けれど彼女は、誰一人見る者がいなくとも、まるで転がっているかのようにふるまう。すねていると全力で示す。
それは彼女の趣味のようなもので、今、一人の少年につきまとっているのも趣味だった。
まるで趣味ではない、好みではない獲物だが。一度狙った獲物を諦めるのも嫌だ。それだけ。
―――それだけなのに、あの態度と来たら。
胸のうちでごちて、彼女は彼を脳裏に描く。
神経質そうな、繊細げな顔。真っ直ぐな髪。それはそれだけ抜き出せば、まずまずの容貌。けれど、あの目はいけない。
腹立たしいわ、と彼女は思う。
あの、薄い青。その色に相応しいとでも言ってやりたいような、冷たい態度。
まるでなにをいっても出ていかないとでも思っているような態度だ。実に腹立たしい。
『まったく。わたしがちょっと人じゃないだけで。神経質な』
何度も繰り返した言葉を吐き捨てる。とはいえ、彼女の声もまた、その体と同じく。夢の中にだけあるものだ。
しかし、人を彼女のいる夢に誘うために、声を聞かせることはできる。姿を見せることができる。
彼女が聞かせたいと思ったものにだけその声は届き、触れたいと思ったものにだけ、その手は届く。
彼女はそういうもの。そんなモンスターなのである。
『…ここは距離をつめなきゃね。待つだけの女なんてダメだわ…』
己の心のままに動く少女は、大きく頷く。
この部屋の主が近づいてくる気配を感じつつ、彼女はするりとベッドから降りた。
「おかえりなさい。今日も早いのね。たまには誰かと遊んだりしないの?」
「…帰るなりうるさいなお前は」
寮の自室の扉をあけたポーズのまま、低くうなるテオフィル。
低く、ぼそぼそと聞き取りにくいと揶揄されている声に、夢魔は何も言わない。
ただふふんと笑って、ねぇ、と甘く囁く。
「寂しくない? そんな性格で、態度で。昼間は寂しくない?」
「別に」
短く答えた少年は、ばたんとドアを締める。
そのまま本棚へと直行し、その脇の椅子に座る。
いつも通りの行動を、少女は何も気にしなかった。
「意地張らなくてもいいわ? わたし、わかってるから」
「いや。お前は何もわかっていないだろう」
「あなたは寂しいの。だからわたしは思いついたわ。
―――だから、ねえ、ついてきていいって、言って?」
平行線をたどる会話を気にせず、夢魔はにこりと笑う。うっとりとした様で誘う。
「あなたが許可をくれたら、わたし、お昼も一緒にいれるの。今は自由に動けるのは寮だけど、あなたが言ってくれたら大丈夫。
…ねえ、だから。いいでしょ?」
かがんで囁く夢魔の腕は華奢でたおやか。その手は少年の頬へと伸びる。
触れるか触れないかの位置でさまよい、かすかにくすぐる。
肌をざわめかせるその感覚を、テオフィルは鼻で笑った。
「…お前さ。馬鹿にほどがある。
優秀な生徒についてるサキュバスなんざ、教師にみつかったら一発で消される。そう思わないのか?」
横目だけで彼女を見ながら、彼はつづける。嘲りの色を強くにじませ。
「生徒はちょろくても、教師はそうちょろくないぜ。
死にたくなきゃ大人しくしてるんだな」
馬鹿が、と最後にもう一度繰り返す彼の目は冷たい。
言葉も悪いし、もはや彼女へと一瞥すら与えない。
一瞥も与えない――――ちらりとも見ない彼は、気づかない。
「…それって。心配、してくれるってこと?」
テオフィルの言葉を受けた夢魔はきょとん、と目をみはる。
ぱちぱちと瞬いて、唇を薄く開いて。全身で驚きを表現する。
ぼうけた様な呟きに、少年の冷笑が消える。がばりと彼女の方に振り向いて、苦い表情でにらむ。
「なんで僕がお前を心配しなきゃいけない」
「……わかんないけど。教師に見つかってほしくはないんでしょ? わたし、基本的に人に見えないんだけど……教師はたぶん、見えるだろうし」
彼女は姿を見せたい相手だけに見え、声を届かせるモンスター。
それでもここに勤める教師とは、そうして人を惑わせるモンスターを殺すことができる魔法使いだ。
そのことを、彼女は知っている。彼も知っている。
彼が知っていることを、彼女も知っているからこその驚き。
なおもぱちぱちと瞬く夢魔に、テオフィルは大きく舌打ちする。
「めでたい勘違いだな。お前が僕についていたら、僕が引き込んだと思われる。それは困るんだよ。何度も言うが、僕は優秀で通ってる」
「な…なによそれ。また結局自分のことをぉ? …まったく! ちょっと感動して損したわ!」
もう、と呟いて背中をむける夢魔。
今日も律儀にすけることなく、まるで人のように拗ねるその姿を見ながら、テオフィルは笑う。
暖かさや愛しさのにじんだ、まっとうな笑みではなく。まるで愚かなものを見る、実に嫌な冷笑で。
言いたいことを言いきった彼は、それきり本の世界へと没頭していく。
「……ああ、もう」
そうなると、焦れるのは彼女だ。
彼が学園にいる間、ずっと彼を落とす手段を考えていた彼女だ。
「ホント、つまらない男」
不機嫌に囁いて、彼女は彼の肩に触れる。
首筋をさわさわと撫でて、やわらかな頬を肩に乗せる。
実体化の最中のその身体は、確かに彼の肩へ触れる。
けれど、そこにさしたる重みはなく。ただ冷たい体温と、やわらかな感覚、妖しいまでに甘い匂いが漂う。
軽い感覚に眉をしかめながら、テオフィルは小さく口を開く。本のページをめくる手はとめぬまま。
「お前、なんで僕にかまうんだ」
「それも何度か言ってるでしょ。おいしそうなの。
あなた、全然好みじゃないし、顔も好きってわけじゃないんだけど」
意味ありげな沈黙に、ページをめくる手がほんの少し止まる。
白い指がトントンとページをたたくのを眺めながら、夢魔は笑った。
「でも、気になったの」
それは、ここ数十日で、何度も見る笑顔。
無邪気で人がましい、まるでモンスターなどには見えぬ顔。
振り向かずともその表情を察した彼は、それ以上何も言わない。
答えを待つかのように落ち着かなかった指で、またぺらりとページをめくる。
「ねえねえ食べさせてよー。
そんなに命の危機感じるなら、わたしなにもしないからぁ」
「…信用できるか」
何度も読んだ本に目を通しながら答える彼の声は、苦い。
その声色こそが楽しいとでもいうように、夢魔の声は明るいままだ。
「なによ。おねえさんがやさしーく楽しませてあげるわよ?」
「そういうとこが信用ならない」
「…まったくもう。チキンなおバカさんね」
夢魔はあは、と笑い、頬と頬をすり合わせる。
確かに触れる、けれど何の重みもない。現実味のない身体の感覚。
その冷たさに顔をしかめた少年は、己の胸元へと触れる手を強く払った。
2015/10/04