少年―――テオフィルはため息をつく。
彼の日常は、そもそも楽しいといえるようなものではなかったのだ。
朝起きて寮の食堂に向かえば、なにやら調子に乗った面倒な同級生か絡まれる。―――金品を要求されるわけでもなく、ただ協調性がない性格と、少ない体力を揶揄されるだけなので、特に気にせず朝食をとってはいるが、うるさい。
昼間、学園の講義を受ければ、退屈だ。―――彼の実家は裕福で、今講義でやっている程度のことなら、既に家庭教師によって終わらせていたのだ。単なる復習のようなものである。
そして、夜。
テオフィル唯一の平穏であった夜も、今。突然の襲撃者によって侵されていた。
「全裸もダメちら見せもダメ。シスターもダメ貴婦人もダメ。少女も熟女も老女も幼女も少年も青年も幼児も老人もダメ―――
あなたはいっそなにがいいの。人気あるところでいえば……触手? わたし、そういう人型以外にはなれないからちょっと妥協してくれない?」
「お前が人外だっていうことが、どうやっても駄目だ」
襲撃者である夜魔はぷうと頬を膨らませる。
ただの人間、それも小娘。いっそガキ。
そんな風に称したくなるモンスターに、テオフィルはどこまでも憂鬱だった。
2
「なによ。ちょーっとわたしが人じゃないってだけで。差別はよくないわよ」
「差別するだろう。人類にとってモンスターは害虫だ。挙句、強くて厄介な。
お前がどれだけ馬鹿のようにしか見えないにしても、行為に及んだら僕は死ぬ」
ぼそぼそと細い声を正確に拾って、夢磨は心外だ、と叫んだ。
「殺さないわよ! ここの人達、確かにあんまりおいしくはないけど! やっぱりその量は魅力的なのよ。しかも毎年新しいのが入ってくる。割と楽園だわ。追い出されたくないの」
「…来年を待たずとも、他にも活きのいいのが山ほどいる。他を当たれと、何度言えばわかる」
「あなたこそ何度いったらわかるの? このまま引き下がったらサッキュバスのプライドはズタズタなのよ」
ここ数日、この夢魔が現れてから繰り返している攻防戦に、テオフィルは開いていた本を閉じる。
「今のわたしはあなたを食べたいの」
読書を諦め、彼女を見つめる彼の目は、どこまでも冷めている。
椅子に座る彼の傍らに立つのは、見目は確かに愛らしい少女だ。見慣れぬ点など、このあたりでは多少珍しい褐色の肌くらい。
ここ数日、部屋に戻る度におかしな格好や服で出迎えてくるが、今はごくごく普通の村娘のような恰好をしているので、目にも優しい。
クリーム色のワンピースに、ゆるい三つ編みにまとめた金色の髪。ぱっちりとした、愛らしい目元。
多感な齢である少年が視線を下げれば、スカートからすらりとのぞく足は実に艶めかしい。だが、それに猛毒があると知っている彼としては、かじりつこうという気にはなれない。全裸であろうと薄布越しであろうと、毒は毒だ。
「なぁに? じっと見て。やっとその気になった?」
「それはない。お前が人でも好みじゃないし、人じゃないからなお無理だ。そう確認してただけだよ」
言い切って嫌そうな顔をするテオフィル。
夢魔はここ数日の常として舌打ちを落とすと、ねえ、と問いを重ねる。
「…あなたの好みってどんなんよ。どの性別でも年齢でも無反応だったじゃない」
「顔はお前のままだからそう違いがないだろ。芸もないな。
大体そういう問題じゃない。僕は、頭のいい、慎ましやかな、読書の邪魔をしないような女が好きだ」
「わたしだって字は読めるし、読書の邪魔なんてしない。あなたはただ黙ってズボンを脱いでくれればいいのよ。勝手に終わらせるから」
「……ともかく何もかも嫌だ」
「何が嫌なのよ! 黙ってるだけで言いなんてもう出血大量大サービスな待遇なのよ! わたしはガツガツ元気に色々してくれるのが好みなんだから! 強引なくらいの!」
「それに飽きたから僕につきまとっているといっていたじゃないか」
「好物ばっかり食べてると飽きるのも当たり前なの。人もモンスターもそれは常識。
そんなこともわからないなんて、テオフィル。あなたは本当におバカさんね」
バカ呼ばわりにぴくりと眉を動かしたテオフィルは、黙って立ち上がる。
そうして、なにやら勝ち誇った顔をするようなモンスターの額を指で軽くはじいた。
「…女の子は大事に扱いなさいよ!」
人類の敵であるはずの少女は、それだけで大げさに痛がる。
テオフィルは鼻で笑ってから、くるりと踵を返す。
「モンスターには温情をかけているとしか思えない待遇だな」
小さなベッドへ向かっていく強敵に、夢魔はもう、と叫びをあげる。
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ!」
今夜はもう寝ると全身で示す背中にかかる声は、高く、良く響く。彼にとっては、良く響いた。
―――やかましいこの声が、今は僕以外には聞こえていないというのだから、確かにコレはモンスターなのだろうが。
それにしたって間抜けな女だ、と彼は胸のうちだけで呟いた。
やかましいこのモンスターを退治する術を、彼はいくつか有している。
優秀な魔法使いになる可能性のある者たちが集められるはずのこの学園は、その安全性ばかりを買われてそうでない金持ちの子息が暮らしていることも多い。
その中で、テオフィルは本当に才能のある方の生徒ではあったから。
だから、この弱々しい夢魔を殺してしまうことが、彼にはできた。
しかし、彼は今宵も黙ってベッドに入りこむ。じっと目を閉じるた少年は、不満げにブツブツと文句を呟き続ける少女を追い払うことはしない。
そうしてしばらくして、彼が眠ってしまえば。夢魔はあきらめる。最初の三日は夢の中でもちょっかいを出してきたが、起きている時とまったく反応が変わらないからと、見切りをつけたらしい。
ようやく訪れた静寂に、彼はそっと眠りの世界へと沈んでいく。
間抜けな夢魔がテオフィルの部屋に住み着いてから、十数日がすぎた。
退屈な同級生に、退屈な講義。それを終わらせれば、やかましい少女が現れる。
―――いったい僕がなにをした。神を信じたことはないが、モンスターに好かれる筋合いもないというのに。
心の中だけで愚痴を言い、彼はゆっくりとドアを開ける。
そうすると、おかえりなさい、と高い声が響く。
それが、この数日の常であった。
「…………お前」
しかし、その日。
夕日の差し込む室内で彼が見たのは、床に転がり、うつろに天井を見つめる少女だった。
『…なんだ。テオフィルじゃない。帰ってたの』
身体を透けさせた夢魔はそう言うと、彼の予想よりは確かな足取りで立ち上がる。
そうして唇を尖らせて、閉めた扉にもたれる少年を見つめる。
「お前…今度は何のマネだ」
『マネ? …ああ。今のは、別に誘惑とかじゃないわ。あなた、倒れる女の子を優しく介抱、なんて趣味じゃないでしょう。
今はただお腹が減ったから、ちょっとだらだらしてただけ』
「腹が、減った?』
『そーよ。まったくもう。あなたが食わせてくれないから、ひもじいったらないわ』
「…お前…まさか、僕のところにきてから、何も食ってないのか」
『当たり前でしょう。あなた本当に反応しないだもの。失礼しちゃうわ』
なにが、当たり前なのか、と。
問いかけようとした言葉が喉で潰れるのを感じながら、テオフィルは拳を握る。
彼は彼女に何も食わせていない。それでも消えることがないということは、彼の寝た後には他の生徒のところへいっているのだろう。
当たり前のようにそう考えていた彼は、ひどく動揺した。
彼女が彼以外で食事をすませる気がないと、空言だと思っていたそれが、本気だということに。
なによりも、倒れるモンスターの姿に、不気味に跳ねた己の心臓に。
信じられない思いで、じっと夢魔を見つめる。
『なによ。言っとくけど、少し食べられない程度でわたしが消えるとは思わないことね。
でもね。実体化には力を使うの。だからちょっと疲れた。それだけ』
「……なら。ずっとそうして透けてればいいだろう。つくづく馬鹿な女だな。お前」
不機嫌な少女の言葉に、テオフィルは小さく笑う。いつも通りの冷笑で。
笑って、いつも通りに本棚の傍の椅子へと一直線の少年に、少女はあのねえ、と声をあげる。
『あなた、二言目には人外人外ってうるさいじゃない。じゃあこうして透けてたら余計にたたないんでしょ?
気を遣ってやったのに、なによその言いようは。…あなた、モテないでしょう』
「12から同性しかいない空間で暮らしている。モテても嬉しくはない。問題はないな」
『ふん。性別なんて些細なことだわ。そんな細かいこと言ってるんだからまちっがいなくモテないわね。哀れな男。
……第一ね。あなた、わたしを馬鹿にしすぎじゃない? わたし、本当はあなたよりずっと強いわ!』
こぶしを振り上げ主張する夢魔。
得意げに続ける彼女に、彼は本を物色する手を止めて、そっと目線だけをよこす。
熱のない青の瞳に挑むように、彼女は得意げに笑った。
『特にね、あなたが食わせてくれたらもう無敵よ?
やってる最中ならゾウの大群が襲ってきても殴り飛ばせるんだから』
「象? やってる最中にどうやって戦うんだ。どうして戦うんだ。僕は踏まれて死ぬのか。第一、それなら僕も勝てる、魔法を使えば。
…ここはドラゴンに勝てるくらい言ってみろ。つまらん」
『無茶いわないでよ! 最強のモンスターじゃない!』
「強いんだろ。お前も」
『あなたよりは強いって話! 基本的にわたしの力はご飯に依存するから、無理よ無理!
三日三晩大魔導士の5、6人も食い殺したらもしかしたら、ってレベル…か、しら?
なんにしろ! あくまで見習のあなたの精気でそこまでいかないわ』
うぬぼれないで、とそんな言葉で抗議を締められて、テオフィルはムッとした顔で言い返す。
「……強いものを食えば強くなるなら、教員を食いに行けばいいだろう。
あのすましたツラのどれかが村娘みたいなお前にボケた様をさらすことを考えれば、多少面白いな」
『あー……教師は……生徒と違ってわたしを駆除しようとしそうだけど……でも、テオフィル! そうしたらあなた、わたしを見直して跪く!? 隷属する!? 女王様って呼ぶ!?』
「ハゲおやじ殺しって呼んでやるよ」
『もう少しかっこよく呼んでちょうだいよ』
苦い表情でぶつぶつつぶやく彼女の顔に、先ほどの弱り切った様子の名残はない。
否、弱り切った様子、など、見たところではわからないのだろう。本当は。
先ほどは気をぬいていたから、たまたまそう見えただけ。
―――たまたま、そうみえてしまっただけなのだ。
不機嫌顔の少女から目をそらし、少年はじっと眉を寄せる。
あくまで見習魔法使いのテオフィル。
それでも彼は、彼女を駆除する程度のことはできる。
―――こんな弱そうなモンスターを追い払うことくらい、できるというのに。
選んだ本を開いて、隣でわめき続ける少女を無視する。
彼の胸の中は、実に苦い思いで満たされていた。
この学園にいるのは、12から18までの少年。
優秀な魔法使いを目指す彼らには、ある2種類に分けることができる。
女人禁制と、強力な対モンスター結界を高く評価した親たちから、この窮屈な学園に閉じ込められた子供たち。
本当に歴史に名を残すであろう、すさまじい才能を秘めた子供たち。
彼は、そのどちらでもない半端ものだった。
才能はあれど、それはあくまで元から才能がないようなボンクラと比べた場合。今、そこそこ優秀なのは、実家での教育のたまもの。知識だけの優秀さ。
彼の知識に学園での講義が追いついたその時には、決して優秀とはいえないレベルに落ちぶれる。数いる半端ものの中に埋もれる。
その時は―――あと、一年あるか、ないかに迫っている。
早熟な16歳の少年は、それをよく知っていた。
その自覚の分だけ卑屈に捻じれた、寡黙なこの少年の話し相手は。このところ、間抜けで貪欲な目の前のモンスターぐらいなのである。
2015/09/27