「…前さ、お前と見てきたところ。まわろうとしたんだ。馬車とか乗るのが面倒だから、翼でだけど」
歩いて歩いて、町を背中に。
薄らぼんやりとした月が輝く頃、森の入口で適当な切り株に腰かけた緋那は、そんなことを言った。
湧きでる心
「それって、あの時」
白いハンカチを広げた上に腰をおろしながら、僕は尋ねる。
大きめてタオル地のそれは、向いあうように地面に座ろうとされたら、嫌な顔をされて。差し出されたもの。
「ああ。あの、旅行」
そうか、やっぱり、あの幸せと不幸の間をジェットコースターな旅行か。
とても懐かしいような、少し前の様な。曖昧で、幸せな記憶だ。
「磨智が心配で、それどころじゃ、なかったけど。
それでも、思い出すと案外楽しかったから。回って気晴らしするつもりだったんだよ」
ほんの少しだけ笑った緋那は、なんだか遠くを見ているように思えた。
「つもり?」
「つまらなかった」
彼女が見ている遠くは、過去なんだろうか。あの時のこと、なのだろうか。
「…だから、早く帰ってきてしまった」
切り株の分だけ高い位置にあるその顔は、それでもそこまで遠くない。
木々に遮られてくらく、月の明るさで明るい。おぼろな夜の中、ぼんやりと浮かび上がる白い顔。
ああ、綺麗だな。
性懲りもなくそう思う間に、言葉が続く。
「…お前がなにしてるか、気になって。それどころじゃなかった。全然気なんて晴れないし。もう、遠ざけておけることじゃ、ないんだって。分かるだけだったよ」
泣きそうな声で、泣きそうな顔で。
そんなことを言う理由は、なんにも分からないれど。
「…なあ、ベム」
赤い瞳がこちらをはっきりと見る。
引き絞られた眉は、なんだか痛みにこらえているようで。やっぱり、何もかもが悲しげだ。
…ねえ、なんで。
僕はそんな顔をさるほど、貴女を苦しめているの?
でも。
「私はお前が怖い」
告げられた言葉は、あまりに予想外。
かつて、同じ言葉を聞いたけれど、2度も向けられるとは、思わなかった。
だって、そんな。
…怖い、って。
苦しいでも鬱陶しいでもなく、怖いって。
「…どうして」
いつそんな風に想わせる態度をとった?
心辺りを探す僕に、彼女はますます悲しそうな顔をした。
そうして深くついた息に交えて、湿った声で言う。
「こんなことを言っただけで、死にそうな顔をするお前が、私はとても怖い」
「……え?」
「私のいうことに、こんなにもふりまわされるお前が、怖い」
なに、それ。と声を出すこともできない。
だって、こんな悲しそうな顔を始めて見た。
悲しい時、傍にいたいと思った。傍に求めてくれればと思った。のに。
原因は、存在そのものだと、言われたようで。
「…それって、嫌い、じゃないの」
「……嫌いなら。
嫌いならお前が誰に騙されてふりまわされようが、知ったことか………」
心を裂くような言葉を使えば、それは否定される。ぶんぶんと、らしくない乱暴な動作で首を振られる。
「だったら…!」
「だから!」
だったら、なにがそんなに。嫌で悲しいの。尋ねかけた言葉が、怒鳴り声でかき消される。立ちあがった視線の先、彼女はうつむいていて。
「だから、そんなこというから…っ! わかんないんだよお前…」
その声に、勢いがあったのなんて、一瞬で。
うなだれて呟かれる言葉に、伸ばしかけた手が止まる。身体全体が、固くなる。
「私、お前になにもできてないんだぞ。なんにも。答えてない。
そんな竜に何年もかまけて、どこまで馬鹿だ。お前」
「緋那」
「私は、お前のそういう馬鹿なとこが、嫌なんだ。
…本気で、私しか、見ていないところが…、怖い」
沈んだ声に、おぼろげに理解する。
ああ、その感情は。怖いと言うより、きっと重いのだろう。
最近。緋那は。
手を貸せば困ったような顔をするようになった。好きなものを送ればもっともっとそんな顔になった。
好きだから愛しているから。
伝える度に見せていた顔は、きっとこの結論に繋がっていたのだろう。
それはそうなのかもしれない。
僕だって抱えているのが重い想いだ。軽くて不確かな身体を、あっという間に満たしてしまった想いだ。
きっと、重くて、鬱陶しいのだろう。
でも。
「…しかたないよ。好きなんだから」
仕方ないよ、諦められないし、変えれない。
「緋那が言うのは、全部その通りだと思う。
でも、嫌われているんじゃないなら、変われないよ、きっと」
こうなってしまって、こんなこと言われても。変えれる気が、しないのだから。
「…そもそも。何年も、もなにも。これまではよく覚えてないくらい、長く生きてたから。あっという間だったよ。貴女がいたから」
緋那が好きで、目に映るだけでも、幸せだったから。
緋那のためなら、なんでもできる。なんにでもなれる。
緋那を嫌う以外のことなら。諦める以外なら、きっとなんだって。
「…また、そういうことを言うのか」
「うん。…ごめんね」
思ったまま、素直に頭を下げてみた。
「…謝るな、そこで」
すると、立ちあがった彼女が苛々とした口調で吐き捨てた。
苛々と、怒っているような。
そんな言葉すら、湿って消えて行ってしまったけれど。
「…お前さ、本当。…本当、なんで私だよ」
湿って、消えてしまっても。すぐにこぼされる言葉が、嬉しい。その内容が。どんなものだって。
ただ、思い出したようにざあと吹く風でなびく髪で、その顔が少し隠れてしまうのが、寂しい。
彼女が隠れてしまうのは、ちゃんと見えないのは。…寂しい。
「納得できる理由があれば。僕にこたえてくれた?」
だから、僕も言葉を続ける。拙くとも。見失わないように。
「…どうだろう」
ざあ、と大きく風が吹く。
雲が動いたのだろう、暗さの増した森の中、その呟きは頼りない。
「…お前、私といる時より、風矢とかメーといる時の方がいきいきしてるじゃないか」
「そうなの?」
「そうだな、楽しそう。あっちの方がいい」
「…それは楽しくないなんてことはないけれど」
「…その言い方、風矢とそっくりだしさ。仲良いなあって感じで…いいじゃないか」
「……そんな目で見てたの」
「うん」
素直に頷かれると、むずがゆくなる。
こう、背中のあたりが。どちらかというと嫌な感じに。
それでも、いつになく穏やかな声色は魅力的だった。消えてしまいそうで、頼りなくても。少し儚くたって。
「私といると、無理してるんじゃないかって、くらい、気楽そうじゃないか」
でも、くす、と洩れる笑い声に、なぜだか少しむっとした。
だって、そんなことを言われても。
「でも、別物。それを言うなら、貴女は磨智を愛してるの」
「そういう意味じゃない。…そんなんじゃなくて、もっと簡単に」
夜闇にまぎれぬ赤い瞳が、僕を見る。
向かい合わせに、こちらを真っ直ぐに見つめる。
「…お前、私に、もったいない気がしてさ」
真っ直ぐに、そんなことを、言われても―――………
「意味がわからない。僕は貴女がいいとずっと言ってる」
それが本当で。そうして、また息詰まる。
再び眉を寄せた彼女に、それを思い知る。
これだけじゃ、駄目。なのか、と。
「…緋那」
それでも、名前を呼ぶ。他に呼びたいものがない。
「僕は緋那が好き。それだけで、なんで駄目なの」
駄目なんだろうって、分かったけれど。
そんな顔をするほど、何を悲しむの。
今にも泣きそうな顔で、何を探していると言うの。
「…だって、駄目だろう」
じり、と一歩下がって、緋那は言う。それでも眼差しは真っ直ぐなまま、こちらを見ていて。
「私、このままじゃ。お前から、一方的に…色んなもの、とりそうで」
ああ、本当に。
生真面目で愛おしい龍。
「それでもいいって、いってしまいそうで。…悲しい」
泣きそうで、それでも泣かない。
そんなことをしたら、困らせてしまうじゃないか。以前。そう、あの旅行中に、悲しそうな顔をしながら、そう言った。
悲しそうでも、嫌でも。相手に関わることは止めない。
そんな、龍。
「そんな好き、なら、お前、止めろよ。捨ててしまえ、そんなん」
今だって、そんな顔をするくらいなら。
僕を無視した方が、楽なんじゃ、ないのかな。
「嫌だ」
だから、僕の答えなんて、分かりきっている。
嫌われたのではなく。僕のためにならないから、なんて。訳の分からない理由で、そんなこと、できない。
「緋那」
黙り込んだ彼女の名前を呼ぶ。一歩、踏み出す。
中途半端に遠い近い距離は、それだけで互いの身体が触れ合いそうな距離。けれど伸ばしたい手は、拳にしてこらえた。
「緋那は、僕からなにもとっていないよ」
そうして、真っ直ぐな眼差しを、見返す。
「……ばか」
つい先日聞いたものと同じ言葉、同じ響き。
広がる暗い気持ちは、あの日と同じで。
続く言葉だけが、ちがう。
「だって、全然、対等じゃないだろ……」
言葉が、伝わる気持ちがあることが、ちがう。
「なんで、そこまで馬鹿だよ、お前」
間近で見る肩は細かく震えていて。だから一層細く見えた。
「緋那」
それをやめさせる言葉が、浮かばない。
ああ、嫌だな。
「頼みごと一つ、いってくれないのに…」
どうしたら、どうやったら。
悲しませずに、悲しませずに、済むのかな。
「…緋那」
手を伸ばして、彼女の手の触れる。
僅かにふるえて、所在なさげだった手を、掴む。
「頼み事、あるよ」
驚いたように瞬く瞳を、ただ見つめる。
ちらちらと見える、深くて、綺麗な赤い双眸。
綺麗に世界を満たした、色。
「好きになって」
それに願うことなんて、最初から。それだけ。
「重くて意味分からなくて、貴女のことも何も分からない僕を、好きになって」
どうしよもなくて、悲しい顔をしていても。
捨てる気がないと、思ってくれるならどうか。
「緋那」
額に押しつけた手のひらが、逃げることはない。
強張った意味が、緊張じゃないものならいいのに。同じものならいいのに。
ずっとずっと、思ってた。
選ばれたい、それまで待つと。行儀のいいことをいいながら、ずっと。
いつだって。
「愛してる」
いつもの言葉を、いつもになってしまった言葉を、それでもいつも必死に紡ぐ。
そうやって。
「…うん」
少しためらったようなその答えは、初めて聞いた気がした。
「……うん」
小さな声で繰り返される声に、顔を上げる。
「…知ってたよ、ベム」
顔をあげて。目の前に飛び込んできた笑顔に。
どうか、綺麗に笑い返せていたらいい。
願い事を胸に、肩に手をかけて抱きしめる。
ああ、そういえば。こんなことも、しようともしなかった。
意外なほどにあっさりと収まった細い身体に、今更そんなことに気付いてた。