リビングに降りてみたものは、ぼうっと天井を見つめるベムだった。ぼうっと、虚ろに、木目のそれを見ているベムだった。
…なんか、怖いな。
周りに誰もいないから、余計に怖い。
「…ベム」
先ほどまでとは違う意味で怯えつつ、その名前を呼ぶ。
ゆるゆるとこちらを振り向く目には、不思議そうな輝きがあった。
転がり落ちて、その先で
「どうしたの」
ソファに座ったままそう言うベムは、そこだけ見ればいつも通りだ。
けれどやはり、どこか変だ。むすう、というか。どよーん、というか。そんな言葉を背負っていている気がする。
…話辛いことこの上ない。
しかし、黙っているのも居心地が悪い。
「…前、賭けを、しただろう」
「…忘れているのかと思ってた」
僅かに苦笑めいた表情をして、応えるベム。
…そうか、忘れられている気でいたのか。ならばやはり、悪いことをした。
「…確かめるのが遅くなって悪かったが…とりあえずあれ、私が勝った、んだよな?」
「そういうことになる」
こくり、と頷く彼は、特に悔しそうでも何でもない。…そういえば、なにがしたかったんだろう。
ソファの傍に立ったまま、こうなった原因を思い返してみる。
風矢の想いが叶ったならば私の勝ち。叶わなかったらこいつの勝ち。
そう言うわりに、こいつは風矢にうまくいって欲しそうなことを言っていた。言ってたんだが。…いざうまくいったらこの状況の辺り、もしかしたら、それが嘘、だったのだろうか。
しかし、不機嫌そうにしつつも別れろだのなんだのは冗談でも口にしていない、ようだ。
…本当に、ちぐはぐだ。なにがしたかったんだ。
「…なら、お前は一つ言うことを聞くんだな」
「うん。なんでも」
「なら答えろ」
必要以上にきつくなる声に、自己嫌悪が募る。
違う、別に責めているつもりはない。ただ、気になって。それだけなのに、どうして。こんな言い方になってしまうのだろう。
苦い気持ちで言葉を続ける。そうすればそうするほど、違和感が強くなる。
「なんであんな賭け持ちかけたんだ。…お前、負けるの、期待してただろ」
「おかしいかな。風矢が落ち込むとこ見たくなかったのは」
「そこはおかしくない。賭けを持ちだしてきたのが、おかしい」
重ねて問う。と、ベムは一瞬、なにかを躊躇うような顔をした。
いつもぼうっとしたこいつにしては、珍しい顔だ。
それでも、それは本当に一瞬で、すぐにいつも通りにの言葉が続く。
「…僕は、貴女にいってほしかったんだ」
「…なにを?」
「貴女が僕にしてほしいこと、言ってほしかった」
あくまで淡々と言って、彼はこちらを見る。
「だから、負けた方が良かった。貴女の望みを、訊きたかっただけだから」
真っ直ぐな瞳に、居心地の悪さが増す。
ふい、と顔を逸らしてしまう。
「…そのくらい、直接…」
聞けばいい、といいかけて、首をふる。聞かれていたのに、無視したことが昔ある。それに、今だって。…聞かれても困るから、こんなに待たせていたのだった。
「…そうか」
気付いて洩れた声は、なんだか奇妙に湿っていた。
「…緋那?」
怪訝そうな声に、ふ、と肩の力が抜ける。…本当に、どうしてお前はそうなんだ。
いつもいつも馬鹿正直に、色んな事を言ってくるのに。
肝心なことはいつも遠回りで、訳が分からなくて。
肝心なことは―――いつだってこちらにゆだねてくるから、迷ってしまう。
けれど、いい加減分かっている。
それはこいつの元からの性分なのだろうし…私がこいつと距離を置こうとしたから、こんなことになっている。
ならば、言うべきことは、きっと。
わけがわからなくとも、正直な気持ちなのだろう。
「…一応考えはしたんだ、お前にしてほしいこと」
「そう」
「でも、思い浮かばなくて」
言いながら、ベムの顔を、真っ直ぐに見つめる。なにかに挑むような気持ちで、見つめ返す。
「なにもしないでほしい」
夕日に似た色の瞳が、少しだけ見開かれる。
そうかと思うと―――そっと伏せられる。
何も言わないまま目を伏せる姿が、やけに悲しげだと思い、自らの発言を反復する。ついでに、普段の言動も考えてみる。
「…別に、迷惑だから黙っていろという意味じゃないぞ」
慌ててつけ足せば、再び目が見開かれる。先ほどより大きく、驚いた風に。僅かに頬すら染めて、こちらを見る。
言葉より雄弁に喜んでいると分かって、ひどく―――照れくさくなる。
「…何してほしいか考えてつくづく思ったんだよ。お前に気を遣われてるって。
普段手がいる時は先回りしてくれてるし、…昔磨智とメ―のことで相談した時も、嫌な顔一つしなかった」
再度顔を逸らしつつ、呟く。
なんだかふてくされたような呟きだと、自分も恥ずかしくなる。…当たり前のことを伝えるだけなのに、どうしてこんなことに。
「だから、改まってしてほしいことなんてなにもなくて…困ってた、から、顔も合わせずて…」
ちらり、と奴の顔を伺う。
連日のおかしな様子が嘘だったように、いつも通りの顔。…いや、いつもより嬉しそうな、その顔。
…当たり前のことを、言っただけなのに。なんでそんな顔をするんだ。
あれこれ疑うのが、恥ずかしくなってくるじゃないか。
「…その、悪かった」
「謝られるようなことじゃない」
小さな呟きに、ベムが応える。
淡々と、ぼそぼそとしているくらいなのに、やけに真っ直ぐな言葉は、そういえば聞きもらしがたいと、今更気付いた。
「そんな風に考えてくれてたのが、嬉しい」
「…お前は、いちいち大袈裟だ」
「貴女相手だから、仕方ない」
「なにが仕方ないんだよ」
「愛してるから」
「馬鹿なこと言うな」
反射で言い返して、息をつく。
…なんだか、悔しくなってきた。
なんで…こいつ相手にこんなに動揺しなきゃ、いけないんだ。
「…しかし、私が勝ったのは確かだからな」
なにか焦った気持ちで、話題を元に戻す。
そうだ、難しく考えなくていい。あとくされないことをすればいいのだ。
「おごれ」
それってデート、とか言われるだろうなと思う。
そうすれば、うかれすぎだと言えた。
怒って、調子を取り戻せた。
でも。
「…うん」
静かに頷かれるだけだから、余計なことなど、言えなかった。
「…ほうれん草のピリ辛炒めが食いたい」
「分かった」
「それと、如雨露が壊れたから、新しいのを買いたい」
「確かにあれは直しようがないね。行こう」
「…お前はどこかないのか、行きたいとこ」
「強いて言うなら釘を補充しておきたかったから、ちょうどよい」
2人きりのリビングに、互いの声だけが響く。
別に珍しいことではないのに、ふと言葉につまる。
生れた不自然な沈黙に、小さな笑声が響く。
それの元を見ていれば、ベムは僅かに口の端を上げた。
「緋那、愛してる」
それは、何度も何度も聞いた所為で、日々のあいさつと同じように聞こえ始めた言葉。
けれど今、ひどく―――違うものに聞こえて。
「だから、待ってる」
「…覚えて、おく」
ようよう呟いて、ふいと顔を逸らす。
なんとなしに触れた額は、たぶん少しだけあつかった。