ある日の夜、126番地の風龍は露骨に眉をひそめて帰ってきた。
基本的に笑顔の彼としては珍しいその態度に、同居人達は少なからず驚いた。基本的に笑顔のわりにポーカーフェイスとは程遠い彼だから、そうして不機嫌そうなことは珍しくない。
けれど、それが常に続くとなると、それは珍しいことだったから。
刺さった棘
―――そんなこんなでなぜか不機嫌な風矢君がキッチンを占拠したせいで、どうにも家に居づらい。玄関の扉を前に回想して、溜息をつく。
居づらいから、昨日はメー君と出かけて。今日、こうして帰ってくるまでは、手芸屋さんをうろついていた。
けどまあ、そろそろ帰る頃合いだろうと思うし―――ずっと気を使う義理もない。ただいまと呟いて扉を開けた。
「おかえりなさい」
リビングに入る私を迎えたその声は平静だった。その顔も、笑顔だったけど。
今もまだ甘そうなクリームでの飾りつけの続いているケーキは、中々ダイナミックな大きさになっている。
「…風矢君」
「はい?」
呼びかける声には訝しむ思いを隠しきれなかったのだろう、返った相槌には不思議そうな感情。
「誰か結婚でもするの?」
「はぁ? なんです、いきなり」
「それ、もはやウエディングケーキの域だよ」
二段重ねのケーキを指さして言えば、彼はまじまじとそれを見つめる。
そして、大きく頷いた。今気づいたとでも言いたげだ。
「それもそうですね。
まあ、食べるから問題ありませんよ」
「全部君が食べるの?」
「食べようと思えばいくらでも」
あっさりと答えられて、なんだか妬ましくなる。
「…君のそーゆーとこがむかつくよ。なんで太らないの」
そんなに甘いものを食べてるんだから、もっとずんぐりむっくりとした体形になるべきだと思う。その細身は理不尽だ。横にいかずに縦にいったとばかりに身長が高いのも気に食わない。
「運動してますから」
「私だってしてるのに、理不尽だよ。もうっ」
言いながら、つかつかと歩く。
近くに来て向い合えば、風矢君は目を細める。鬱陶しそうに。
基本的に静かに微笑んでる彼だけど、その表情は案外読みやすい。弧を描く唇は、不機嫌になれば一文字に引き結ばれる。笑みの形の双眸は、苛立ちを感じる度にじっとりと据わっている。
嬉しいと思っていれば、笑みは深くなって。見た目のわりには子供らしい、屈託ないとしか言えない表情になる。
分かりにくいようで、とても分かりやすいのだ、風矢君は。
だから、最近の彼がカフェに行くのを楽しみにしているのはすぐ分かった。
ある夜同席したメー君の話と、先日の電話で、その理由も知れた。
なら、今不機嫌そうにしている理由も、同じなのだろう。68番地の小町ちゃんという少女。彼のお友達。
だから。
「で、なににそんなに悩んでるわけぇ?」
「放っておいてくださいよ。貴女には関係ありませんし」
だから、思いっきり笑顔を作って首を傾げる。
彼はフッとクールぶって笑って答えるけど、悩んでませんとか言えないあたり、やっぱり腹芸は向かない。
「ふっふっふ。関係なくてもいいじゃない。私と君の仲だし。
お姉さんにはいてごらんなさーい。楽になるよー?」
「誰がお姉さんですか」
ぐしゃぐしゃと髪をかき交ぜてみる。すると、思い切り払いのけられた。
別に痛くなんてないけど、結構な力を込められたと分かる大きな音が響いた。
「可愛くないなあ、風矢君たら」
「可愛いと思われても嬉しくありませんって」
疲れたような溜息を落とす彼の瞳には、同じように疲れた色がある。
悩んで疲れていると分かる。その原因も予想はつく。けど。知られたくないと言うことも分かる。そんな態度だ。
「いいじゃん、可愛げは大切だよ? 風矢君の強情ー」
「強情で結構。むしろ望むところです。
…さっきメーが帰ってきてましたよ? 今は部屋にいるでしょう。からむならそちらにどうぞ」
きっぱり言いながら、その手は彼の部屋を手で示す。
馬鹿丁寧な仕草にいつもなら少しカチンとくるところだけど、なぜか今日は溜息が漏れた。
「……自分の手に負えないなにかあっても、君はきっと言わないんだろうね」
「貴女がただ漏れすぎたんですよ」
クスと笑うその声は、なんの感情も読み取れない。ただの音だ。
苦さと共に思い出す。確かに、私はそうだったんだろうな。彼と一緒にいると時は。
色々落ち込んだ時とか分かりやすく愚痴ったりしてたけどさ。愚痴を言うと言うよりは、関係ないことまくしたてて気をそらすのに使ったけどさ。緋那に言ったら首を傾げられるようなことでも、彼は黙って聞いていてくれていてくれたから。
だから少しは恩返ししようと思うのが分からないかな。
もしくは、分かっているからこそ拒否しているのかもしれない。たぶん、こっちが正解だ。
ならしかたないか、とリビングを去ろうとする。椅子に置いた買い物の戦利品を抱えあげて、部屋に戻ろうとした。
「…ああ、でも、ちょうどいい」
けど、背を向けた瞬間小さな呟きを聞いた。
「磨智さん」
「ん?」
呼び止められたから振り向く。
どこかおどけたような声音で、彼は言った。
「寂しそうな顔してくれません?」
どこかおどけたような声音で言うくせに、その顔はやけに真剣だった。
もしかしたら、それこそ寂しそうな顔だったかもしれない。
だから、正直に答える。なんのためにと訊きたかったけど、堪える。
「…その時、どんな顔してたかは、分からないけどさ。
寂しいと思った時、君の傍にいたことがあるよ」
苛々した時彼を頼った。マスターばかり見てる彼を見ているのが嫌で、気を紛らわすために利用したことが、ある。
だから、寂しいと思った時、同じようにしたことがないとは言わない。
けど。
「その時、君は何も言わないで自分の部屋に帰っていった」
分らず帰って行ったわけではない。分かったから、きっと帰って行った。
「…そうですか」
僅かに俯いた彼の唇が、小さく動く。
なにを言ったのかは、私には分からない。
ただ、僅かに聞こえた笑声が、自嘲のように思えた。
磨智さんがリビングを出ていくのを見送って、作業を中断していたケーキへ目を移す。
確かに、途中で新しく一個焼いて重ねたりした所為で、ケーキは中々豪華なことになっている。昨日ホールケーキ一個たいらげたので、さすがに今日は止そうかと思ってしまうほど。
別に連日作る必要はなかったのに作っていたのは、考えごとをするのに都合がいいからだ。
考え事をする時は手を動かすのがいい。何も考えずに、数値に従い淡々と手を動かすような、そんなことをするのがいい。
そうしてずっと考え事をしていたけれど―――解決策はまるで見えてこない。
『寂しいと思った時、君の傍にいたことがあるよ。
その時、君は何も言わないで自分の部屋に帰っていった』
言い切る彼女は、珍しく真顔だった。
僕の前では大抵ニコニコ笑っているか、わざとらしく膨らんでいるかなのだけど。珍しく。
何も言わないで帰っていく、か。
「…それが僕なのにな」
先ほど呟いた言葉を再び呟く。それは先ほどと同じように、ひどく力ない呟き。
そう、面倒だと思えば、切り捨てればいい。深入りなどしても、面倒なだけなのに。
それなのに、彼女といると分からなくなる。これまで築いてきた行動論理に合わないことをしてしまう。
あの口で優しいと言われる度に、好意を示される度に、なにかが揺らぐ。どこまで立ち入るべきかを考える前に、余計としか思えない言葉が口をつく。
ざわざわと胸がざわつく。
パーソナルサークルとでも呼ばれるなにかの侵される感覚。
自分の価値観が変質することは構わない。むしろ楽しい。その真ん中にある自我とでも言うべき場所に、些細な変化など届きはしない、だから。
それなのに、今、彼女といるとなにかがぐらぐらと揺れている。
それなのに、今、彼女といると楽しいと思う。
「―――どうかしている…」
きつく閉じた瞼の裏に、彼女の笑みが浮かぶ。
そして繰り返し思い出すのは―――先日の夜のことだ。