それは、日の暮れるのが随分と早くなってきたある日のこと。
 朝の町・広場。その一角に設置された掲示板の前で、沈鬱な顔で黙り込む少女が一人。
 少女は穴があくほどそれを見つめ、やがて大きく息をついた。

木枯らし吹く頃に

 掲示板の前で唐突に立ち止まったかなたの目線の先には、こいつ自身の写真とある言葉が記されていた。
 『負け犬』
 …もちろん、悪口じゃない。れっきとした称号だ。敗北数の最も高いものに送られる称号。…まあ、不名誉だけど。
 本人も不名誉だと思っているのか、ぷるぷると肩を震わせ、低く喉を鳴らすかなた。
 珍しく悔しがって嫌がっているのなら、まあ、いい。
 いいのだけど………
「付き合えメー。力尽きるまで戦闘巡りに」
 いいのだけど、俺に視線を戻した彼女の眼は据わりきっていた。
「…ああ」
 俺は静かに、けれど大きく頷く。
 気合いを入れようと今のままじゃ敗北数を増やすだけ。
 そんなことは、きっとこいつだって分かってる。けど。
 それでも、行動せずにいられないのだろう。
 ならばどこまでも付き合うのが、きっと俺の役目だ。
 ずんずんと進んでいく背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。


「―――って、感じに、かなたにしては珍しく頑張ったんだ!」
 リビングで力説するメーの声を聞きながら、私はコーヒー豆を削る。
 …力説してくれるのは嬉しいけど珍しいはひたすら余計だ。失礼な。
「……けど、やっぱり負けたんだね……」
 磨智のしみじみとした呟きが耳に痛い。あ、耳っつーか、精神に来るわ。
 ええそうですよ、負けましたよ。
「…いや、こいつがやる気を出したってことに俺は敬意を払いたい。
 こいつときたら昔は本当体力なくてすぐばてるは雑草なんてお粥にして食うもんだとかわがまま言うわ他人の血を見るのが嫌だとダダこねるはで大変だったんだぞ! 戦闘系なのに!」
 メー。最初は少し声潜めてたけど、もはや大声。悪気ないのは知ってるけど、心の傷口にしみるからやめて。
「分かったからとっとと脱げ。血まみれの服を着てるのがそんなに好きならそのままでもいいけどな」
「あー。ああ」
 まったく血は落ちにくいのにまた汚して…
 ぶつぶつ呟く緋那の目も痛いです。蘇生したてのダルさに堪えます。
 色んな意味で傷む頭を抑えつつ、曳き終えたコーヒー豆に湯を注ぐ。ぽたぽたとポットに落ちていく雫を見ながら、はぁっと溜息をつく。
「……なにがいけないんだろう……」
「…作戦?」
「少し変えてみようかなあ」
「…努力?」
「やっぱ足りないのかなあ」
「根性」
「メーお前なら根性でゾア・カオスとか吹っ飛ばしてこいや」
「なんで俺だけむごい反応!?」
「だって君だけやけに自信満々だもん」
「精神論にもほどがあるしね、根性って」
「お前の努力だって似たようなもんだろ!?」
「要は経験知の違いって言ったつもりなんだけど、察しが悪いね、メー君ったら♥
 あ、緋那。私も手伝うよ」
 言い逃げだ、とぼやくメーを無視し、磨智は働き者の背中に続く。
 遠ざかる二つの足音を聞きながら、ポットへ落ち切ったコーヒをカップに注ぐ。
 日に日に葉が落ち、肌寒くなっていくこの季節、温かなその温度は手に心地よい。 
 椅子に腰掛け、砂糖とミルクを加える。一口すすれば、吐息と共に言葉が漏れた。
「……美味しくない」
「なら飲まなきゃいいじゃん」
 あきれたように言うメーに、一応反論の言葉を紡ぐ。
「コーヒが嫌いなわけじゃないんだ。飲みたいもんは飲みたい。
 美味しくないのは、私の淹れ方のせいだよ。これ、豆はそれなりにいいの使ってるし」
 だから、まずいとまではいかない。私好みの、酸味の少ない味ではある。けど…なんか違うよなあ。
「…美味しく淹れられたもんに比べて、香りが違う。口あたりもきつい。…削りすぎなのかな」
 引き立てコーヒーはおいしい。
 苦味はある。けれど、それ以上にコクがある。ほんの少し酸味は優しく全体を引き締め、ミルクを注げば至福の味わい。
 あれには他のものはいらない。自他共に甘党の私が砂糖をいれることをあえて拒むほど舌になめらかな味わいは、あのままでこそ引き立つ。くう。再現できないけど飲みたい。悔しい。
「…毎回そーやって『イマイチ』とか言ってないか?」
「…言ってるねえ。ベムはうまいんだけどな。淹れるの」
 今度、コツを訊き直そう。
 そこまで思って、もう一口。…削りすぎの豆は苦味が強い気がした。
 否、この苦さは、心の中から来るものかもしれない。
「……ホント、なにもできないな」
 ぽろっと弱音を吐いてしまったと意識するまでに、少しだけ時間がかかった。
 …あー。マジ成長してる気がしない。背も伸びないし、できることは増えないし。増えるのは敗北数ばかり。
 これが、散々変化を厭ってきた報いだろうか。私自身には、向上心が欠けていたのだろうか。
 などと落ち込んでいると、じーっとこちらを見つめる視線が一つ。
「…なに」
「…お前ってホントつまらないことで落ち込むよな…」
「つまらないってなに!? 私これでも戦闘系!」
「いや、『わーい、掲示板のれたー』とでも言うかと思った」
「それもかなり思ったけど」
「思ったのかよ」
「お、思ったけど…なんかこう、じわじわ来たんだよ! ほっとけ!」
 感情にまかせてバン、と机をたたくと、メーがむうと口を尖らせた。
「ほっといたら落ち込むじゃん、お前」
「落ち込んで落ち込んで落ち込んでると落ち込むのに飽きて浮上するからいいの!」
 我ながら意味の分からぬことを叫びながら顔をそらす。だが、続いた言葉を聞き流すことはできなかった。
「…ま、気にすんなよ。いつものことじゃん」
「…メー」
 名を呼ぶと共に、椅子に敷いているもの―――薄いクッションを手に取り、ボスっと顔をうずめさせる。
「…君はやっぱり無神経だ…」
 呟くと、くぐもった声が応える。判断する限り、失礼な、かな。
「…っは、だって事実だろ! 気にしてもしかたないことだろ!」
「いや、そうなんだけどね。言われると腹立つし。もうノリで。そこにメー君がいるから、みたいな☆」
「みたいな、じゃなねえ! 心配して損した!」
 乱暴に言い放たれた一言にいっきに怒りが冷める。…と言っても、元々たいしたものではなかったけど。
「…心配されるほど変な顔してた?」
「してた。」
 コクリと頷かれ、なんとなしに自分の頬を触る。今はふにゃりと柔らかいが、もしかしたら強張っていたのかもしれない。
「…そっか」
 呟いて、小さく笑う。
 うん。そんなに落ち込んでる気はなかったんだけどな。
「…ま、気にしてもしゃあないから丹念に励むよ」
「そーだ。これを機にグウタラから卒業しろ」
「うあ偉そうメーのくせして」
「くせにとか言うな!」
 言いながらも、心が驚くほど軽くなっていた。
 …ああ、愚痴は口に出して訊いてもらうに限るってことか。
 遅れて気づいた感謝の心を口に出そうとした。けれど。
「ともかくあれだ、どーしても落ち込んだらアレ思い出せばいいだろ」
「アレ?」
 オウム返しに問えば、メーはフフンと鼻を鳴らす。ひどく得意げな表情で、
「適材適所ってやつ。
 つまり、お前がぼこられることによって経験つんで強くなれる奴らのこと考えりゃいいじゃん。
 強すぎるとやる気も失せるみたいだしさ、ほら、その点お前はちょうどい―――」
 彼がその言葉を最後まで紡ぐことはなかった。
 私の放った中身のないカップアタックは、ダメージを与えるかどうかは別として、彼を黙らせる手段程度にはなるのでした。
 少しは、真面目に鍛錬しよう。
 そう誓いなおしたその日は、窓から吹く風がやけに冷めたく感じた。

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