夕日の沈む頃に家に帰ると、僅かに甘い香りを感じた気がした。ヒトの嗅覚では感じることのないだろう、微かな香り。
「なにか食った?」
「緋那ちゃんお手製のクッキーを」
「…俺の分は?」
「…えへv」
目線をそらして笑うかなたの態度が、綺麗に食いつくしたと告げていた。
甘いものをどうしても食べたいということはないけど。少し損をした気もした。
見えぬ境界
だから、夜。風呂上りの緋那にささやかな文句を言ってみた。
「とっておいてくれりゃ良かったじゃねぇか」
「なんで私にそこまでする義理があるんだ…」
今日買ってきた雑誌をめくりつつぼやきに、うんざりとした顔で答えが返った。
「食いたいのならそれに合わせて帰ってくればいいだろ。現に風矢はそう言う時を外さない」
「…あいつはなんかそういうのを当てるカンがあるんだ。きっと」
「カンじゃない。出かけに私が台所に立っているかどうかを確かめている。砂糖を買い足した時とかもよく作るから外さないな…」
感心したような口調で緋那。
…よくそんなこと目につくな、あいつ…俺には考えられない。
胸の内でぼやくと『甘い物のためなら!』とか言って胸張ってる風矢の幻が見えた。…嬉しくも何ともないので頭を振って追い出す。
「…んなもん気にするの面倒くさい」
「なら諦めろ」
静かな声で言いきって、洗いたての髪に当てていたタオルをそっと動かす緋那。
そして、ふと気づいたように目線を下に動かす。下に、俺の手元に。
「…珍しいな。ただふらついているわけではなくて雑誌なんて買ってきたのか」
「あー…これは、その…」
適当な言葉を呟きながら、頭にあるのは『失敗した』の文字。
いや、落ち着け、相手は緋那だ。言わないでくれと言えば決して言わない。こいつの口の固さは信用できる。
「…その、気が向いただけだ」
それなのに、なぜか誤魔化すような言葉を口に出していた。
案の定、却って怪訝そうな顔をされた。
「…慌てるような内容なのか?」
「…いや、フツーの旅雑誌」
これ以上誤魔化すと、きっとロクな方向にいかない。素直に口に出した答えに、緋那が軽く眼を見開く。
「旅? どっか行くのか?」
「いや、懸賞が面白そうだったから。そうじゃなきゃ立ち読みですますし」
「本屋の敵だな」
「主人に似たんだ」
「でもあいつはそれ以上に還元してるからな…」
赤い瞳がと遠いところを見るように細くなる。
…本が積まれまくってる所為で乱雑なかなたの部屋を思い出して嫌がってるのかもしれない。
「で、どんなもんが当たるんだ?」
それは、なんてことのない問い。それを知りたがってると言うより、話で流れで訊いてみただけの、なにげない問い。けれども、答えに詰まった。
詰まってしまったのが、悪かったのかもしれない。たいしたもんじゃねえと言えば、それで済んだのに。
―――からかわれる方にもからかわれる理由がある。
なんだか最近よく言われる言葉が苦く浮かんで消えた。
「…メー?」
なにか隠すようなもんなのか。
重ねられた問いは、少しだけ真剣味を帯び始めていた。
…どうしよう。黙ることは簡単だ。隠してもまあ、緋那は追及してこない気もするんだが…
脳裏に、やたらめったら楽しそうな磨智の顔が浮かぶ。
今ここで追及されなくても、そういえばとか蒸し返された時に限ってあいつがいるんだよな…
悩んだ結果、少しだけ周りを見回す。
いてほしくない茶色の髪がまだ湯に浸かっていることを確かめてから、素直に見せてみる。
「…コレだ」
指さした先を見て、緋那は実に奇妙な顔をした。
「…ガラス細工だな」
「ああ。これで特集組まれてるとこの名産品だって」
「…可愛い天使だな」
「……ああ」
「…ドレスが可愛いな」
「………ああ」
「…ハート抱えてるな」
「…………ああ」
「…花に囲まれてるな」
「……………ああ」
「私が言うのもなんだが、ずいぶん少女趣味だな」
「………………ああ」
我ながら間の抜けた相槌を繰り返す俺に、緋那はいたって真面目な顔をして言い放った。
「…そうか、ついに本格的な女装趣味に」
「目覚めねえよ。しかも本格的ってなんだ。軽いのには目覚めてるみたいじゃねえか」
即座に突っ込めば、フっと微笑まれた。
「冗談だ」
「真顔で言うな。分かりにくい!」
吠えて雑誌をパタリと閉じると、むず痒いくらい優しい目をされた。
「磨智にやるのか?」
「……………悪いか」
ふいと視線をそらすが、こいつの声は変わらず真っ直ぐだった。
「悪くない。…けど、この間も指輪あげてたよな。そんなに貢がなくても」
「貢ぐ言うな。なんか嫌だ。…渡すものでもないと二人きりで会うための口実なんざ…っ、今のなしだ!」
思わずこぼれた言葉を慌てて訂正するが、遅い。しっかりと聞かれている。
「…つまり、デートの口実が欲しいんだな」
その声に、こちらをからかおうという意思はない。
ただ、しみじみと憐みに似た色を感じた気がした。
「デートじゃ…なくはないけど…」
「そんなこと気にしなくても、誘えばいいだろう」
いともあっさり言われた言葉に、今までとは違う意味で頭に血が上る。なんか、腹立つ。
「照れくせえんだよ、あっさりできるか!」
「照れくさいのか?」
「照れくさいんだ!」
必死で訴えるが、緋那は不思議そうに眉を寄せる。
「…付き合うって言うのは、そういうものか」
「しみじみ言うな…」
じわじわと羞恥がこみあげる。
こいつには茶化そうなんて意思なんてないだろうと分かるから、いたたまれない。
「それだけのことが、そんなに照れくさいのか」
「…それだけそれだけ言うな…っ」
それだけのことに騒ぎすぎかもしれない自覚はある。それでも、照れくさいものは照れくさい。どうしよもないことだと思う。
それなのに、緋那の追及は終わらなかった。…珍しい。
「なんで?」
「…知らねえよ。つーか分かれば苦労してねぇ」
知らないうちに呟きが愚痴っぽくなっていく。
…もう、逃げようかな。部屋戻って雑誌片付けてくればいいんだし…そろそろ磨智も風呂からあがるだろうし。
けれど、不意に聞こえた声に気が変わる。それは妙にしみじみと深い、静かすぎる声。
「…お前には、言えるのにな」
「は?」
そらしていた顔を戻すと、目線がかち合う。
緋那は、少しだけ笑った。
「…こういうこと、お前には平気で聞けるのにな。でも、私では駄目なんだよな。私も、お前じゃ駄目だ」
いくら俺でも、ここで『なにが』と訊くほど馬鹿じゃない。
確かに、こいつとじゃ駄目だった。仲なんて磨智よりよほど良かった時があったのに。
…いや、違う。
「だから、駄目なんじゃないか?」
「だから?」
「俺はそういう対象にならないから、気楽にこんなこと言えるんだろ」
だから、俺だってこいつとは気安いままで―――そう、昔のままいれるのだと思う。
どんなに仲良くても、境界線を挟んで、違うところにいるような、そんな感覚。あいつじゃなきゃ駄目だと思った、その理由。
曖昧で目には見えない、言葉にもし辛い境界の向こう側にいたのが、あいつだったんだ。
「…お前に諭されるって変な気分だ」
「失礼だなオイ」
睨みつけるが、緋那の表情は変わらない。
ひどく憮然とした顔のままだ。
「かなたにしゃきしゃき動けと説教された気分だ…」
「ひでぇ言われようだな…」
声を低くして、さらに目を据わらせるが、緋那はまったく気にしていないように頷く。
「…確かに、だから、お前では駄目だったのかもしれないな…」
呟いて、スクっと立ち上がる緋那。
その横顔は、どこか安堵しているように見えた。けれど、まだ納得なんてしてないようにも見えた。
良く分からないけど――――今までになく、迷ってるように見えた。
「…緋那?」
「なんだ」
「…や、なんでもない」
答える声はいつも通りだ。
…気の所為、か?
それとも―――
つかつかと自室に戻る背中を見送りながら、苦い言葉が浮かぶ。
―――それとも、俺じゃ解決できないことなのかもしれない、と。
「…俺は世話になったのにな」
なにかできれば良いと思う。なにか返せれば良いと思う。
けれど、あいつはそんなこと求めてはいないのだろうと、やけに確信を持ってそう思った。