今は昔。遠い記憶。

 銀色の彼は茶色の彼女に花を贈った。
 それを贈るまで、彼は彼女を無視してしまった。たぶん憎々しい目で見てしまったであろう自覚があった。
 それは彼女のことが嫌いだからではない。彼は少し前まで主人の言葉に傷つくあまり、すべてのことから目を逸らしてしまった。
 だから、新しい環境に不安を感じていたらしい彼女にも、随分冷たい態度で接してしまった。
 主人との仲が元に戻り、心に余裕を取り戻した彼はそのことを深く反省した。
 きっと傷つけてしまった。けれど、このままではあまりに悲しい。
 だから彼は謝罪の言葉と花を贈った。
 彼はその時点で彼女がなにを好んでいるのかを知らない。
 ただ、お詫びの印として添えようとしたものを探していると、綺麗な花畑に出逢ったから、たくさんの花をつんだ。
 残念ながら彼の作ったそれは花より草の比率が多く、まとめ方も大変残念な出来だった。
 それでも。
 茶色の彼女は心から嬉しそうに笑って受け取った。
 彼はそれが少しだけ不思議だった。
 先に傷つけるようなことをしたのはこちらなのに、なぜ彼女は怒らないのだろう。あんなにも嬉しそうに笑うのだろう。
 自分は当たり前のことをしたのだから、あんなに喜ばれる筋合いはないのではないだろうか。
 なぜ―――と悩み、彼は気づいた。
 きっと彼女は強いのだ。
 だから、自分を許してくれるのだ。
 そう感じた彼は彼女に微笑み返した。
 不器用に、でも、彼女に合わせて。
 笑った彼女はそれなりに可愛いことが分かって、なんだか嬉しかったから。

 彼の致命的な間違いは、彼女が強いと思ったこと。
 彼女は彼に無視されてそれなりに傷ついていたし、居心地の悪さに落ち込んでもいた。
 それでも、彼女はそれを忘れるくらい嬉しかったのだ。
 名前を呼んで花をくれた。不格好で安っぽい花束。それでも、彼は一生懸命作ってくれたのだと分かったから。
 だから、彼女は微笑んだ。
 初めての贈り物をそっと抱きしめ、喜びで頬を染めた。

 今は昔。遠い思い出。彼と彼女のはじまりの思い出。
 彼はそれを忘れた。けれど、想いは残っていた。
 だからこそ、今、もう一度。雨の後に想いは固まる。

雨降って、地固まり

 126番地の住人が帰宅したのは、夜が更けた頃。
 不安げな顔をした4人を出迎えたのは、二人並んだ光龍と地龍。
「……そうして仲良くしてるってことは、うまくいったの?」
 不安げに会話の口火を切ったかなた。
 メーはその目線から逃れるように顔をそらす。
「……うまくって……いうか、その」
「こうなりました♥」
 笑顔で腕をからませる磨智に、メーは真っ赤に染める。
 4人は一瞬、顔を見合わせ合う。そして、それぞれの表情で頷き合う。
「…うん、すごく分かった」
「本当、よく分かりました」
「確かにものすごくよく分かった」
「うん」
 その反応に、メーは一層顔を赤く染める。
 言葉より雄弁にその関係を述べる彼に、生暖かい視線が注がれた。
「…まあ、なにはともあれおめでと。本当。ほっとし…」
 ほっとした、その言葉は最後まで続かない。
 一歩踏み出した磨智が、かなたに抱きついた。
「かなた。ただいま」
「………磨智………今……」
 かなたは驚いたように目を瞠る。
「マスターじゃなくて、かなたって……」
「言ったよ。それがなに?」
 あっさりと言う磨智に、かなたは一瞬泣きそうな顔をする。
 彼女はずっと後ろめたかった。
 この地龍に余計な一言を吹き込んで、傷つけた。なによりも大切な相棒もまた、傷つけた。
 そのことが後ろめたくて、謝って余計に拗れさせることも怖くて、どうしよもなかった。
「…怒って、ない?」
「もう、やだなあ。こんな状況でなに言ってるの? こんなの、なんでもないことでしょう?」
 磨智は笑う。穏やかに。
 彼女はずっと主人を恨んでいた。
 けれど、嫌っていたというわけでもない。恋敵と思っていたというのも、少し違う。
 ただ、疎ましかった。彼を独占する彼女が、ずっと。
 けれどもういい。自分も彼女も、別に彼を独占したいわけではないのだから。
「…そうだね。なんでもないこと、だよね」
 穏やかな笑顔に、かなたは笑い返す。
「おかえり! 磨智!」
 抱き返した主人に、磨智は声をあげて笑った。

「…俺の、俺が告った時は、泣きじゃくったのに…」
「……情けない顔しないでくださいよ、メー」
「ああ。両想いなだけありがたいと思え」
「緋那、声が変。…泣いてる?」
「うるさい! 放っておけ!」
「……ごめん」

 笑顔のままで泣きじゃくるという器用な芸を始めたかなたをわき目に、会話の輪は続いた。

 散々泣いて、泣きわめいたかなたは、一人階段を登る。
 下ではまだ会話の輪が途切れていないようだが、一旦自室で落ち着きたかった。
 だが。
 かなたは振り返り、呼びかける。
「…風矢君。なにかお話?」
「ええ」
「…そう。じゃ、立ち話もなんだね。私の部屋おいでよ」
「そうですね」
 笑顔の主人に、風矢はひどく神妙な顔をして頷いた。

 部屋に入り、かなたはベッドに腰を降ろす。その傍らの床に座りつつ、風矢は口を開いた。
「私にはどうしてもわかりません。
 あなたは結局、メーのことをどう思っているのか」
「…磨智もだけどさあ…なんでそういうことを考えるかな…私、メー君に惚れることはありえないよ?
 龍だから、じゃなくて、メーがメーである限り、伸びようが縮もうが欲情はしないし」
「…妙歳の女性にあるまじき発言は無視しましょう。
 それは、なぜですか? あなたたちはやたらと仲がいいでしょう」
「なぜって…そういうものだから」
 それでも納得できないとでも言いたげな顔をする風矢に、かなたはクスリと笑う。
「…もし、私がメーが好きだったら―――」
 笑顔を浮かべ、かなたは続ける。
「まずミミックにでも転職するね。龍と同じ時を生きるなら人間辞めないと。
 で、ドラテンさせないで二人していけるところまでいってたんだろうな」
 静かに言って、笑みを消した。青い髪をぐしゃりと撫でて続ける。
「―――君にはわからないよ。
 私は本当に自分が嫌いだった。…自分本位ではあったけどね。
 自分が信じられないって最悪だよ?
 好意を向けられても―――信じられない」
 風矢は首を傾げつつも無言を貫く。
 先を促すようなその顔に、かなたは唇を動かす。
「どうして好きと言ってくれるの? 嘘でしょう? 同情なんでしょう?
 そんな馬鹿なことしか浮かばない。
 考えてみればそんな風に思うのは、自分が傷つくのが嫌だから―――最大限に自分を守っている、自分大好きだからこその思想だけどな。
 それに気付かないくらい、自分が嫌いだったのも、確かなんだよ」 
 言い切って、息を吐く。淀んだ想いを吐き出すように、大きく。
 そして、僅かに笑う。
「契約を結んだ人外なら平気だと思った。人じゃないから。
 それなら、嘘などつかないとな」
 かなたは笑う。自嘲の笑みで、遠くを見つめる。
「けど、君達も私も生き物だからな。
 嘘もつくし喧嘩もする。
 声枯れるほど喧嘩して、じゃれあって…少し平気になった」
 それに、とかなたは続ける。
「メー君がいれば、大丈夫な気がした。
 失敗しても大丈夫、きっとやり直せる」
 穏やかに続けるかなたの目には、ひどく冷たい色がある。
 なにかを嫌悪するような表情。
 自分を嫌悪するような表情。
「それこそ、メー君じゃなくても良かったんだろうな。
 私を肯定してくれるなら詐欺師でも盗人でも強盗殺戮犯でも良かったよ。
 そういう意味じゃ、メー君がメー君でよかったよ、心底」
 向かい合わず分かち合わず、ただ慣れ合うだけ。
 どこまでもどこまでも共に、そうして、同じ場所へ行けたなら、きっと『愛してる』と囁いた。
 けれど、違うから。
 それ以上には、なれないと知っていたから。
「私はこれでいいんだよ」
 どこか陰鬱な表情は、晴れ晴れとした笑顔に変わる。
「…今、私はあの子以外のたくさんのものが大事だよ。
 君達の間に上下なんてない。…まあ、種類の差はあったよ。メーは特別さ。たぶん、一生ね。
 けど、もう、大丈夫。…大丈夫になってたんだよ。きっともうとっくに」
「…そう、ですか?」
「それにさ、君の最大の勘違いがあるよ。
 私はメーのことが大好きだよ。磨智と同じくらいにね。
 なんで今さら関係を変える必要があると思うの―――磨智が悲しそうだからに、決まってるじゃない」
「ああ…、なるほど」
 それは、今まで言われたどの言葉よりしっくりとなじむ。
 磨智が好きだから。
 だから、彼女は変わることを選ぶ。
「幸福というものは誰かの犠牲のもと成り立っている―――まあ、否定しないさ。私だって誰かを踏みにじって生きているんだからさ。
 けどね、私は、わがままだから。他人を傷つけることは平気で見ないふりだけど…あの子を傷つけるような幸福は願い下げだ」
 言い切るかなたに、風矢は苦笑する。
「…エゴですねえ」
「なにが悪い?」
「いえ、僕に迷惑はかかっていませんから。かまいませんよ」
 言い切るかなたにひとしきり苦笑を返した風矢は、ふと思い浮かんだ言葉を紡ぐ。
「…そもそも…なぜ、磨智さんにはそんな余計なひと言を添えたんですか。婚約者なんて用意するのは柄じゃないでしょう?
 僕は全く知らないことですが…それがなきゃ、磨智さんはあそこまで意地にならずとも済んだのでは?」
「…ああ、あれね。あれには…悪意があったからね。
 そのことで磨智に嫌われようと、メーに憎まれようと、仕方なかったんでしょうね」
 そうならずにすんでほっとしたけど、かなたは笑いながら続ける。
「あの頃、まだメーと緋那しかいなかったからね。当然、負担は今より大きい。今よりずっと急激に齢を重ねた。
 だから…怖くなった」
「…怖く?」
「二人ともすぐに私を置いて行ってしまう気がした。
 なにも残さぬまま、消えてしまうのかと思った」
 龍の時間と人の時間は違う。
 それが当り前のことでも、かなたには許せなかった。
 また私を一人にするの……?
 言葉にできない想いは捻じれて、行き場を失った。
「だから、せめてなにか残してほしかったんだよ。
 いますぐ磨智とどうこうなれと思ったわけじゃない、そういうことを意識してほしかっただけ。
 けど、私が磨智を選んだのはリュコスだったからだ。メーにあんなことを言ったのは、悪意があったからだ。どうせいなくなるなら、せめて忘れ形見の一つも置いて行けと…勝手に不安がって、憎んでた。ずーっとね」
 かなたは笑う。唇の形だけで、ひどく危うい顔をして。
 再び影の差した表情に、風矢は軽く溜息をつく。
 彼に主人の気持ちは分からない。ただ、知りたい言葉だけを紡いだ。
「今後の忠誠に関わるので、一応聞いておきますが。
 あなたは今も同じ気持ちですか?」
「まさか。そんなことないよ。
 もう、さみしくなんてないから」
 かなたは笑う。
「だから、もう、これでいいの」
「…それは良かった」
 それなら僕も忠実な龍でいられそうです。
 僅かに微笑んで部屋を出る風矢に、かなたは本心からの晴れやかな笑みを浮かべた。

 一人残されたかなたは小さく歌を口ずさむ。
 その胸にあるのは、嬉しさと安堵と、静かなの決意。
 きっと自分はあの二人の仲にに口を出してはいけない。
 幸せを願うことすら、今はまだ危うい。
 だから、歌を紡ぐ。いつかどこかで聞いた歌に、想いを乗せて。
「君と好きな人が百年続きますように…か」
 達成する可能性はあるから怖いよね、あいつらは。

 大切な君よ。どうか君が幸せでありますように。
 いつまでもどこもでも、君が幸せでありますように。

 心からの願いを込めた歌は、その日、途切れることなく続いた。

  目次