雨が降り出したのは突然だった。
「…まだ見たいとこ、あるのに」
「付き合いますよ」
「…そうしてもらってもいいけど…、あんた、この間まで風邪ひいてたじゃない」
 本当は今日つれてくるのもどうかと思ったんだから、休んでてよ。
 そう言って、彼女は喫茶店から去って行った。
「…優しいですね、希羅は」
 嬉しげな呟きは、彼女には届かなかった。

気後れの隙間が生涯に傷をくれた

 ―――そんなやりとりをした、数分後。
 雨に足を止められた人間が、もう一人。

「コンニチハ。芹野さん」
 親しげに声をかけられ、窓から外を眺めていた顔がそっと振り向く。眉ひとつ動かさない無表情で。
「ここ、いい?」
「…どうぞ」
 なおも続く親しげな声に、智華は小さく頷いて、それきり口をつぐむ。
 親しくもない二人の間に落ちるのは、雨音。
 けれど、なにやら物言いたげな視線を感じた彼女は、小さく息をついた。
「…それで、なにか?」
「あ、黙って見られるのはやっぱりイヤ?」
「ええ、とても」
「別に用事はないけど。知った顔がいたから、お茶でもしようかなと」
 あっけらかんと、朗らかに。
 笑顔の同業者―――商売敵に、智華は静かに答える。
「…暇な方ですね」
「嫌だなあ。忙しくお仕事してるよ」
 ぱたぱたと手を振りながらも、玲人は続ける。
「例えば姉の仇を健気に探してる女の子を助けたり」
「……そうですか」
 ――依頼人は憎い相手を探しているそうだよ
 ――「藤崎遥霞」という人物を殺したいほど憎んでいるそうだ
 以前彼から聞かされた言葉を、智華は胸のうちだけで繰り返す。繰り返して、それだけ。凍えた胸のどこかに火は灯るけれど―――もう、どうやってもあの子の姉ではあれない。
「まあ、殺されてはいないわけだけど…思い込みって、怖いしね」
「そうですね」
 そう、それは思い込みだ。それでも、無理もない、と智華は思う。誤解を解く方法はとても簡単だと知っているけれど、そうしない。彼女に会うことはしない。
 どんな情報を知ったのかは知らないが、確かに芹野智華を殺したのはあの男だ。命はとられなくとも、社会的には殺された。
 そのことを、恨んだこともある。憎んだこともある。けれど、もう―――昔の話だ。
「…ホント、思い込みって怖いよね、芹野さん」
「そうですね。相槌を打っているからといって、ちゃんと聞いていると思い込むなんて、たちが悪いと思いませんか」
「そうだね。タチの悪い人間にばっか縁があって大変だねえ。芹野さん」
 あくまで明るい調子を崩さない男に、智華は今度こそ溜息をつく。
 子供の喧嘩のようなことを続けるのも疲れるだけだ。
「…それで。聞きたいのはなんですか?」
「別に聞かせろと強制してるわけじゃ、ないけどね」
「このまま延々ねちねちとからまれるのは言っているようなものです」
「そうだね。別にどうでもいいけど―――聞きたいし」
 どうでもいいならほっといてくださいよ、とは言わない。きっと、それなら余計に面白がられるだけであろうから。
「あんなに健気で可愛らしい妹を捨ててまでなんで『こちら側』をとるのかな、と」
 こちら側。
 ろくでもない裏稼業に関わり、自らも手を汚す側。
「私は『こちら側』を選んだわけではありません」
「じゃあ、『東遥霞のいる側』かな」
「ええ」
 さらりと頷いて、コーヒーカップを傾ける智華。
 頬を染めることも、気負うこともなく、至極当たり前の様で告げる女に、玲人はつまらなそうな顔をする。
「…貴女、そのストレートさをもう少し本命に向けたら?」
「その言葉そのままあなたに返します」
「オレの本命? 誰」
「聖那さんが好きなのでしょう」
 問いかけの形をとりながらも、微塵の疑いも含んでいなそうなその声に、玲人は一転して小さく笑う。
「うん、そうだね。大好き。愛してる」
 誰かのためになにかをしたいと思ったことなど、ほかにない。
 理屈ではなく『惹かれる』という感覚を初めて知った。
「…まあ、手ぇ出す気はないけど」
 彼女に惹かれた理由は―――全てだった。
「聖那は惚れてない相手に無意味に手を出される女じゃないし、近場で部下に手出しするほど困ってない。
 口説かないのは簡単だ。オレに惚れる聖那なんて、興味ないから試す気もしない」
 燃えるような赤い髪もなめらかな薄褐色の肌も深い色をしたその瞳も豊満な体もしなやかな身のこなしも整った顔立ちも。なにもかも。
 高くも低くもなくて甘ったるい、けれどそれ以上に静かな声もそれを紡ぐ唇も。すべて。
 ―――すべてが―――そのすべてがもがき朽ち果てていく様を想像するだけで、これ以上なく愉しかった。
 それが彼女へ頭を垂れた理由の全て。
 内心の言葉が聞こえたわけではないだろうが、智華は僅かに顔をしかめた。
「…あの方はずいぶんとろくでもないのに好かれたんですね」
「貴女には言われたくないと思うよ、色んな意味で。
 …というか、貴女がそんな結論に至った経路を聞きたいよ」
「…別に、たいしたことじゃありません」
「でも、いままで言われたことないんだよね、そういうこと」
「…あなた、一か所に留まること嫌いそうですよね」
「うん」
 淡々とした言葉に、玲人は頷く。
「責任をとる立場も嫌いそうです」
「そうだね」
「それなのにあそこにいつづけるのはどうしてかしらと思いながら見ていたら、たまたま聖那さんのためと言っているのを聞いたので。
 ならばそうなのでしょう、と」
「それで本命?」
「はい」
「短絡的だね」
「どうでもいいことですから」
 さらりと言って、再びコーヒーカップに口をつける智華。
「…どうでもいい、ねえ…」
 言いきるなり目線すらよこさない彼女へ、彼はにっこりと笑う。
「貴女の可愛い妹、その気になればどうとでもできる今のオレに、どうでもいいとか言うんだ」
「ええ。それとも私が泣いてすがって人情に訴えれば、あなたはあの子の身の安全を保証してくれますか」
「泣いてすがる貴女は結構見てみたい気がするけど、それよりさ」
 言いながら、結われることもなく流れる髪に、手を伸ばす。
「色々してくれたら、全面的に守ってあげるかもよ?」
 碧の目がそっと細められ、指にからめた髪へ唇を落とす。
「色々?」
「色々」
 たっぷりと含みを持った言葉に、そっと頬撫でる手に、智華は僅かに微笑む。
 馬鹿にするような、とも違う。無意味なまでに綺麗な笑み。それこそ彼女の恋人の浮かべる笑みに似た、ただただ美しい笑み。
「心にもないこと言わないでくださいよ。その程度で動くわけないじゃないですか、あなた」
「いや、オレきつめの美人って好みだし」
「それでも私が頷くとも思っていないし、手を出す気だってないでしょう。面倒な男がついてくるもの」
「…そうでもないよ。むしろ、だからこそ?」
 頬に添えられたままの手が僅かに滑る。顎を捉えて上向かせる。
 上体を傾け、そのまま口づけるようにしながら囁く。
「貴女はオレがなにしても動じなそうだけど。それを知った東君はすっごくいい反応しそうだよね」
 至近距離で見つめられても、変わらなかった表情に、少しだけ影が落ちる。引きつった。確かにいい反応だろう、人のもがくさまが大好きな人間にしてみれば、これ以上ないくらい。
 にわかに強張った表情に、玲人はこの上なく楽しそうに笑う。
「それ見るためなら…別に少し命かけてみてもいいかなぁ」
 別に、大して惜しくないし。
 そんな声を聞いたように、女は僅かに眼差しを険しくする。少しだけ重みを増した声で、真意を測るように呟く。
「けど、そんなものより見てみたいのは、聖那さんでしょう?」
「―――今のところは、ね」
 言って、添えていた手を離す玲人。
 智華は何も言わない。何も言わぬまま、すうっと視線を窓に戻す。
「そろそろ行こうかな」
「そうですか」
 呟く声に、先ほどまでの冷ややかさはない。
 相槌を打つ声も同様で、なんの感慨も浮かんでいない。刹那前のやりとりなど忘れたように、二人は会話を交わす。
「だいぶ話しちゃったから、そろそろあんたのツレ帰ってきそうだし。顔合わせるとうるさそうだ」
「無駄口叩いてないでとっとと言ってくださいよ、そう思うなら」
 希羅もあなたのことが嫌いですから、小さく呟く彼女は、窓を見つめたまま。
 少し前に別れ、ここで落ち合うことになっている友人を探したままだ。
「……ねー。芹野さん」
 伝票片手に立ち上がり、玲人は呟く。
「本気で、色々してくれるなら身の安全保障するけど?」
「あなたに頼らずとも、私なりにできることをします。わざわざ問題を増やすほど危ないことはしません」
「つまらない」
「私はまだ死ぬ気などありませんから。危険を避けるのは当然です」
「そう」
 なら、仕方ないね。
 まったく残念そうではない口調でそう言って、彼は今度こそ足を動かす。
 その後ろ姿が消えた後、彼女はそっと安堵の息をついた。


 外を歩きながら、彼はぼんやりと思考する。
 彼女に言ったことはすべて本音だ。
 間に割って入ってみたら、あの人形じみた男がどのように反応するかみたいと思った。何事にも興味を示さない彼は、彼女さえかかわればさぞ滑稽に狡猾に命を狙ってくることだろう。
 その気になった彼に勝てるとは思わないので、死ぬことになるだろうが―――それでも。
 けれど。
「…うまいこと言うなあ」
『けど、そんなものより見てみたいのは、聖那さんでしょう?』
「確かに、いま死んだらそれを見れないな」
 それは少し惜しい。つまらない。彼女といることはたかが男女の修羅場程度よりずっと面白い。
 彼女は―――せっかく見つけたのだ。
 人生を捧げてもいいと思う相手。
 生まれてこの方身を苛み続ける退屈を忘れさせる、最高の人間。
 裏稼業に関わり、平穏を投げ出して、どうにでもなれと思いながらも―――どこかで守っていた一線すらどうでもよくなる相手。
 それは、破滅を呼ぶ執着なのだろう。

 けれど、と玲人は思う。
 それはなんてすばらしいことだろう。

 物心ついたときから、なにごともそこそこにこなせた。
 それだけで、なにごとにも熱中することもなかった。
 失敗しない代わりに、成功もしない。悲しくない代わりに、嬉しくもない。
 退屈だった。
 退屈に潰されて死ぬのだと思うほど―――空虚だった。
 だから。
 欲しいのは傷だった。
 生きているのだと分かるくらいの、傷跡。
 実感が足りない、生きていけない。傷が足りない。
 だからこの空虚を紛らわすほどの、痛みを。

 それが膿んで死ぬことになろうと、この退屈を埋めてくれるなら、それでよいのだ。

「……まぁ」
 まあ、飽きるのが先か死ぬのが先か、なんて。
 分からないけれど。

 それまできっと。
 オレは彼女を愛してる。

 胸の内だけで呟いて、玲人は雨の中を歩く。
 その顔に浮かんだ笑顔は、違えようもなく幸福そのものだった。



あとがき
 リレ小確か15話くらいで智華と玲人が色々話してたのの後日談。彼女はあれから恋人に隠れて色々とやってるけどそれは別の話。
 まあ、とりあえずゆがんだ愛情というか愛情以外のなにかというか。
 親愛でも忠義でも愛情でもなく、愉悦に従う彼と。
 自己犠牲のようでそれに酔っているようで、でも実はその他がどうでもよくなってしまうくらいコイビト好きでしかたない彼女と。
 どちらもとてもゆがんでいるような、まるで純粋なような。とりあえず性格悪い。
 ついでに聖那は彼が自分に寄せる感情はちゃんと分かってますよ。で、特に感慨はない。いつまで使えるものかしらねーとか思ってる。
 遥霞は…まあ、分かってないでしょうね。どっかで同情されてるだけだと思ってる。…というより、彼女の人生を狂わせたのが自分への恋なんてくだらないものであってほしくない。自分が悪役の方がいい。
 09/12/28