特に意味もなく、呼びとめてみた。
素直に立ち止まるものだから、手を伸ばして。
殴りつけてみたが、特になにを感じることもなかった。
10 鼻血
細い身体が傾いで、床に倒れたのは一瞬。目の前の男を睨みつける。
けれど、睨みつけただけ。
倒れることもせずに、ただ静かにぶたれた頬に手を添える。うちどころが悪かったのか、血の流れる鼻も押さえる。
「……これで要件が済んだようでしたら、下がってもよろしいでしょうか」
滲んだ血を拭いながら、女が言う。
「手当終わらせておけ」
男は薄く笑いながら、返す。
まるで自分が殴ったわけではないような、涼しい態度。
至近距離にあるその顔に女は拳を握り―――黙って呪を唱える。
手をかざしていくつか呟けば、僅かな傷は跡も残らない。
「…騒がないのだな」
「騒ぐなど。意味のないことでしょう」
「つまらん」
「…それはおあいにくさま」
心の底から言っていると分かる言葉に、女は嗤う。
嘲り、敵意、蔑視、恨み。
そんなものを煮詰めたような、暗い笑い。
それを向けられた男は、少しだけ口の端をゆがめた。
「口だけはいつまでも元気な女だな」
「あなたにおほめいただくとは、このみに余る光栄にございます」
良くしゃべるその口がわずらわしいから、黙らせたくなる。
―――わけではない、と男は思う。
良くしゃべる口が好ましい。憎まれ口どころか憎悪を孕んだ言葉しか向けられないが、それでも。
その声は心地よく響き、なぜか手を上げさせる。
「そして、要件が終わったならば。退出いたします」
「ああ」
引きとめる理由もない男は、ただ短く答える。
なんの表情も浮かばない薄笑いに背を向け、女は大いに顔をしかめた。
傷を癒しても、痛みは鈍くわだかまる。
痛みというよりは、鈍いだるさ。
術を行使した結果。
女は優秀な術士である。だが、魔力を多く持っているというわけではない。普通の魔力を、ごくうまく使う。だから、無駄遣いすれば、疲れとなる。
けれどもそれも「いつものこと」だ。
重い扉を閉めてから、女は大きく息をついた。
うつくしいものを手元に置きたいと思った。
意味のないものばかりに囲まれていたから、そう思った。
女の去った部屋で、男は黙って手を見つめる。
何一つ女の名残のない、白い手の平。人を殴ることなど夢にも見ていないような、手の平。
それを見て思い出すのは、女の手。
あかぎれや細かい傷で汚れた、女の手。
治癒の呪文が追いつかぬくらいに汚れた手のひらは、あのおんなの生きる証。
だから、美しいと思う。
赤と黒が、泥にまみれた姿がなにより似合う女だと思う。
だから、何度も呼び付ける。
だから、何度も好きに扱う。
傍において、得るものがないことなど。
遠の昔に気付いてる。
ただ、一瞬。
一瞬、こびりつく赤が美しく見える限りは、ずっと。
「お前は私の『もの』だ」
小さくつぶやく声に、答えなどない。
答えなど、必要もない。
心の奥はうす暗く、希望の色など忘れてた。
鈴がうまれるだいぶ前。いやだいぶでもないかもだけど。とりあえずもう色々終わった後ではあるお話。
鈴父が彼女に向けているのはとても間違った一目ぼれの恋。いや恋でも愛でもないかもしれないけど。まあ、それでも。恋でしかなかった気もしなくはない。
