初めて会った時から、あいつは異常に意味不明だった。
意味不明で、いっそ怖くて。
分からないから関係ないと、忘れられていたのなら。
とても楽だったのではないだろうかと、今もそんな風に思ってる。
そうしてあなたを忘れられるなら
そんな風に思って、横顔を見つめる。
朝色の町を出て、見知らぬ町にありながら、唯一見慣れたその顔。けれど、こんな風にまじまじと見つめたのはとても少ない顔。
高くも低くもない鼻と、薄い唇。眠たげな瞳と相まって、どこかぼんやりとした印象を受ける顔。
それでも、その瞳がきらきらと輝くことを、私は知っている。それに伴う感情のことも、今はぼんやり認めている。
かつて疑い尽くした輝きだけれど、今は信じている。私のことを好きだ、と言いながら輝く瞳を、疑っては、いない。
けれど。まだ、よく分かっていないでいる。
なにが良くて、惹かれるなどというのだろう。
分からない。答え方が、分からない。どう答えたいのかすら、分からない。
「緋那」
「…なんだ」
唐突に名を呼ばれて、ふと考えを見抜かれた気持ちになる。…居心地が悪い。なぜ居心地が悪いのかは、分からない。
「顔、変。…やっぱり磨智が心配?」
「…それは」
それは、そうにきまっている。
彼女は大切な友達なのだから、心配しない方が無理だ。
今、散々傷ついている彼女。馬鹿を想ったせいで散々傷ついた、私の親友。それでも、たぶん、諦められていない、私の大切な存在。彼女のことは、とても心配だ。
けれど、今はそうではなかった。
今は、ちゃんと。旅についてきてくれた彼のことを考えていた。
「…それは、そうだが」
けれど、そう伝えることはしない。
そう答えて、期待させることは怖い。踏み出すことは、まだとても怖い。
「帰る?」
こちらの気も知らず、彼は続けた。
淡々と、抑揚の少ない言葉。
性格の表れた喋り方だと思う。起伏の少ない心が透けて見えるような、言葉少なの喋り方。
「…いや、でも、…今度は、見守るって、決めたから」
もっとも、口数に関しては、私もこいつのことを言えない。口下手だ。
うまく言えたと思えない言葉に、ベムは小さく頷いた。
「そう」
その言葉は、やはり短く淡々としたもの。
けれど、ほんの少し、柔らかい。柔らかいのだと気付けたのは、一度派手に拒絶した後。
関係ないと突き放した。意味がわからない男だと、勝手に決め付けた。
ずっとそうしてきたことは、本当に後悔した。だから、ちゃんと。ちゃんと、こいつとのことは、考えているつもりだけれども。それでも、答えは出せないでいる。前に進んだつもりで、気付いたら、似たようなところに戻っていた。
さぁ、と風が吹く。風にまかれた髪が視界を遮断して、少しの間、彼が見えなくなった。
朝色の町とは違う、潮の香を多分に含んだ風。この港町に来よう、と言ったのは、彼の提案だった。それだけではない。この旅そのものを、彼が言いだした。少し家を出て、磨智と離れた方が良いと、そんな風に、こいつが言ったから。だから、短い旅に出た。
それは彼女のためでもあり、恐らく私のためでもある。
彼女から、あるいは家のことから、他を見る余裕。
それを作るために、こうしてゆっくり見知らぬ地を見ることは、良いことだと思う。
けれど。
なんだかんだで臆病な性質の私がそれを決めたのは、やはり、彼が言ったからだと、そう思う。
そうでなければ、こんなに遠くには来ていない。きっと、適当に近場の山ででも、時を過ごした。
「…………」
はぁ、と息をつくと、ふわりと鼻孔をなでる香りに気付く。
香ばしい香りの元を辿ると、僅かな人だかりに囲まれた露店を見つけた。小さな露店で焼かれているのは、新鮮そうな魚。
「ベム」
「なに?」
「あれ、並んでいいか?」
「分かった」
軽く頷く彼を見て、その列に並ぶ。
なんとなしに前に並ぶ人々を見れば、それは皆人間であり…龍はいない。
…ああ、本当に、遠くに来た。
距離にすれば遠いわけではないけれど、遠くに来た。
完全な人里に混じって過ごすことは、実は初めてに近い。
昔、主と契約を結ぶ前。野生の龍と言葉を交わすことはあったけれど、人里には近づかなかったから。
なんとなく怖くて、遠巻きに眺めていたから。
売り子に代金を支払い、2匹の魚を受け取る。その魚もまた、いつも見るものと同じ種類ではなくて。
「ベム」
「ん。ありがと」
受け取ったベムは、僅かに笑った。僅かだけど、分かった。
何とも言えない心地で、自分の分をはむと噛む。淡白な白身と塩の味が混じり合って美味しかった。
目新しいものは、どちらかと言えば、怖い。落ち着かない。
けれど、今、さしてそう思っていないのは、きっと、身近な存在が傍にいる所為。
最初、異常そのものでしかなかったこいつを、日常のものとして受け入れた証拠。
では、異常ではなくなった彼にどこか怯えている理由はなんんだろう。
私はなにに、そんなに怯えているのだろう。
どちらともなく歩き始めて、流れる景色を見ながら、思う。
なにに、そんなに―――なんて、本当は、考えるまでも、ない。
いつだって、好きだ、愛してると言われた。
耳慣れぬ言葉に、驚きと戸惑いしか返せなかった。わけのわからない怯えを抱いた。
いつだって、過ぎた気遣いをされた。着ることもできないセータは年々増えていく。
その所以を、疑うことをしなくなっても。その思いは、私にはまだ重すぎる。
すんなりと受け取るに、その想いは、重くて深い。飲み込まれてしまいそうで、躊躇う。
けれど、少し。
少し、彼に応えたくもなった。
その思いが、純粋に『お返し』なのか、それとも、彼の言ってくるような感情が芽生えてきたのかは、分からないけれど。
本当に…彼とは、分からないことだらけだ。
それでも、彼とこうして歩いているのは、案外楽しい。
あれこれと連れって言ってくれるところは、どこも綺麗な景色で、騒がしくはなくて、落ち着く。旅行の高揚はあるけれど、落ち着く。案外趣味が合っているのかもしれない。
…趣味に『合わせてくれた』のか元から『合っていた』のかは、分からないけど。
「…ベム」
なんとなく、名前を呼んでみる。
見知らぬ町の中、唯一見になじんだその響き。
少し前を歩いていた身体はわざわざくるりと振り向いた。
「ん」
いや、ん、じゃなくて、もっと。なんかないのか、お前は。
そんな風にいえば、きっと懇切丁寧に色々しゃべってくれるだろう。けど。
「…いや、呼んでみただけだ」
「そう」
答える言葉もまた、短かった。
けど、追求することは、できない。
私達には、きっと言葉が足りていない。
圧倒的なまでに、足りていない。
だって、私はやはりこいつが怖いのだ。
怖いのに、嫌いになれない。そのことがまた、複雑な心地にさせる。良くわからない気持ちになる。
それを伝えれば、きっと、一緒に考えてくれるだろうけれど。どこかで怯えてる。
その怯えすらも見透かしているような瞳が、私は怖くて。それでも、嫌いではない。
分かることは、たったそれぽっちで。
いつまでも、同じところで足踏みをしてしまう。
「日が暮れるから、宿、探そうか」
「…ああ」
同じ所で何度も躊躇う。
最初から何一つ躊躇わない彼に向きあうことを、どうしよもなく躊躇って。
そうして、そのまま。こいつを忘れられていたなら。
私はきっと、とても楽だった。けれど。
できないから、こんなにも胸が痛い。
連れてきてくれてありがとう、と、ふと湧き上がるその一言が、喉に詰まる。胸が鈍く痛む。
その言葉が、彼の中で担うであろう意味に、怯える。
だから、今は。
「…明日は、実際海に行ってみたい」
「…ん」
だから、今は、ささやかに未来を積もう。
躊躇えるこの距離に、甘えておこう。
辿りつくどこかに、この痛みが消えていることを願いながら。
辿りつくどこかで、今悩み傷つく彼女が笑っていることを願いながら。
辿りつくどこかで―――たぶん、待っていてほしいのだと。
ぼんやりと思いながら、空を見つめる。夕日に染まった、朱い空。
ああ、こいつの色だ、と。
思うと、ほんの少し、胸が痛んだ。
言えない言葉を抱える時と同じ、鈍い痛みだった。
2010/04/25