小さな小さな妹を、俺が守らなければと思った。
『ねぇ、お願いね』
 泣きながらそう言って、妹から離れるしかなかった母のためにも―――いや、なにより、自分のために。
 俺は、妹を守ろうと、ずっとそう思っていた。

捩れたままの想い

「…思うだけなら、楽だけどなぁ」
「なにか言った?」
 不機嫌そうな声は、やや下の方から響く。
 聞かせるつもりなどない言葉は、どうやら口から洩れていたらしい。
「いや、なんでもないよ」
 ベッドに寝ころんだままの妹は、怪訝そうな顔をした。
 なんとなく、その頭を撫でてみる。
 ばしぃっと派手な音を立てて、手が払われた。
「…痛てぇ」
「気色悪いマネしてくるからでしょう…?」
 なんなのよ、もう。と唇を尖らせる妹は、顔色の悪いところなどない。けれど、つい昨日負った腹の怪我で、休養中だ。
 それは、厄介事の下請けなんてしている以上、かすり傷と言っていいくらい、些細な傷。だが、傷は傷だ。見ていていい気分など、しない。
「…なんて顔してるの。鬱陶しい」
「鬱陶しい顔をさせてるのはお前だ」
「違う。あんたが勝手にしてる」
 淡々と言いきって、明乃はごろりと寝返りを打った。
「心配するのも鬱陶しい顔するのも、全部あんたの勝手。あたしは望んでなんてない」
 頼りなく映える背中に手を伸ばそうとして、止める。
 そんなことをしても、変わることなどなにもないのだ。
「…ま、そうだけどな」
 だから、なんともないことのように呟く。
 なんともないことでなければならないと、そう思う。
 だから立ち上がり、医務室を後にしようと決める。
 けれど。
 振り向いて、もう一度目が合わないかと願ったのは、きっと捩れた想いの所為だった。

 守らなければと思った。
 守って、幸せにしてやらなければと、そう思った。
 けれど、そう願った俺が、妹を危い仕事を持ってきている。
 守らなければと思った妹に、戦わせている。
 他の大切なモノを守るために、妹を利用している。
 滑稽なものだ。
 そんなことをしているくせに、妹を幸せにしたいという思いは、消えていないのだから。

「あ、武ぇー」
 能天気な声に、廊下を歩んでいた足を止める。
 振り向けば、予想した通り、淡く輝く金髪が見えた。
「明、元気だった?」
「元気に憎まれ口叩いてた」
「そっか。つまりいつもどーりなんだね」
 無表情のまま頷いて、りおはとてとてとこちらに駆けてきた。
「良かったね、武」
「…そうだな」
 誤魔化すようなことではない。ただ静かに頷いた。
「あいつはいつも疲れているし、数日くらい、寝ているのも良い休みだ」
「そっか」
 隣を歩きながら、相槌を打つりお。
 とてとてと評したくなるような軽い足どり、だけれど、その足音はまったくない。
 記憶を失ったと自称するこの娘は、至る所に裏街道を歩む者の特徴がある。しみついている。
 だから、別にこれでよいのだと思う。
 部下として使っていても、そう心は痛まない。
「……」
 そう思っているのは俺だけで、妹はわりと心を痛ませているらしく、マメに世話を焼いているが。
 …いや、その境遇ではなく、記憶の全てを失った娘を、痛んでいるのか。
 あいつもまた、記憶がないのだ。ごく幼い頃の、一部分だけ、欠けているはずだ。
 記憶の一部を失って、むごく不安定な気持ちをひきづっているらしい妹は、りおと共にあることで彼女を労わり、そして、その記憶の戻るのを待っている。
 恐らくは、同じように、自分の失った記憶を取り返そうと、そうして。
「…………な」
「武、何か言った?」
 させないけどな、と、小さく呟いた言葉を「なんの話だ」とごまかして、にこりと笑ってみる。同じように笑い返された。
 …意味が分からない。
「明と武は、さ」
 歩き続けていても、ごく軽い口調で会話は続いていく。
 どちらかといえば、寡黙…というより、口下手な節がある娘だが、慣れてくればそれなりに小喧しい。
 別に、嫌いではない。
 少しくらいうるさい方が、安らぐ。
「仲が悪いようでいい、と思ってたけど。実は、仲悪かったりするの?」
「…さぁ? アレは私の部下である以前に妹だからな。微妙な年頃の妹の心理なんて、兄になどとてもとても」
「武は明を妹って言うし、きっとそう思ってる。
 明も武を兄貴って言うけど。思ってるのかな」
「……さぁな。お前はどう思う?」
「ボクが知るわけないじゃない。
 紅が言っていたんだよ、これは」
 …こんな口の軽い相手に、そんなことは言わない方がいいぞ。
 親友にこっそりつっこみつつ、一応確かめてみる。
「…なぁ、紅也はそれを私には言うなと言ってなかったか?」
「…言ってたような気もする」
 けど、言っちゃったんだから、仕方ないよね、とりお。
 ……わざとか天然か、微妙なところだ。
 これで仕事はそれなりに有能なのだから、故意かもしれないが。
 本当に、これで方向感覚がもっとしっかりしていたなら、文句はないのに。
 …しかし。紅也がそんなことを、な。
 他人に興味があるなんて珍しい。そう思った瞬間、口が勝手に動いた。
「私は明乃を妹だと思っているし、アイツも私を兄だと思っているよ」
「さっきは分からない、って言ってたじゃない」
「人の言うことは少し疑った方がいいと誰かに聞かなかったか?」
「よく言われるね」
 先ほど同様、まるで悪びれない口調で告げられて、はぁ、と息が漏れる。
 記憶喪失じゃなくて、記憶能力がないだけではないかと、たまに思う。
「…あいつと俺では、家族に求めるものが違うだけだ」
 俺は妹を守らなければと思う。
 愛しているから、守らなければと。
 そう思いながら、いつだって危ない場所へ送り込んでいる。
 あいつは妹だから頼り過ぎてはいけないのだと思う。
 それは危いことだから、自分はしっかりしなければ、と。
 きっとそう思いながら、いつだって危ないマネをする。
「家族なのにね」
「…家族はある意味他人より遠いよ」
 少なくとも、俺と父と――いやなにより、母は。
 あの妹を、遠い場所へやりたかった。
 傷つけ騙し血を流す場所ではなく、柔らかな幸せに包まれるような、そんな場所へ。
 けれど、できなかったから…願いは、歪んだ。
 守るために、と、妹の記憶の一部を改ざんして。凄惨な記憶を忘れさせた。
 守るために、と、鍛えて。その手に銃を握らせた。
 それは殆ど、両親がやったことだけれど。
 それを見ていた俺も、恐らく同罪だ。
「…武が遠ざけてるみたいだね」
「…それも紅也か」
「紅は武の陰口なんか言わないよ。悪口はいっぱい言うけど」
「違わないだろう、それは」
「そうだね、同じ」
 こくりと素直に頷いて、りおは続けた。
「遠ざけるのも、遠くなるのも、一緒だよ」
「……今日は口が回るな、りお」
「明がいないと、寂しいからかな」
 寂しさでしっかりするなら、もっとじゃんじゃん寂しくなって欲しいものだ。
 浮かんだ軽口をぶつけなかった理由は一つ。
 寂しいと思えない自分に、ひどく狼狽したから。
 失いことを諦めて、わりきっているのだと、気付かされるから。
「明、もうすぐ、元気になる?」
「…だろうな」
 そうして、きっと、何度も傷つく。
 胸の内だけで呟いて、そっとりおの頭を撫でてみる。
 きょとんとこちらを見つめてくる目に、小さく苦笑した。

 妹のことが大切だと、そう思う。守らなければと、ずっと思っているのに。
 いなくなれば、安堵するのかもしれない。
 そうすれば―――もう、傷つく姿を見なくてもよい、と。
 柄でもなく、そう思っている。

 思い出すのは、おにいちゃん、と呼ぶ声。久しく聞かなくなった、甘い響き。
 まだアイツがなにも知らなかった頃の、甘い響き。
 それをもう二度と聞くことがないということ自体は、さほど感慨はない。
 ただ。
 あの妹にも、そんな時代があったということは、奇妙に胸を痛ませた。

 あいつは優しい娘だったのだと、そう思う。
 優しいままの娘でいらせられなかったのは、恐らく己の力不足。
 守ると言うのなら、もっと完璧にやらなければならなかった。守られていると気付かないように、完璧に。それこそ、母が妹にしていたように。
 けれど、できなかった今、この想いはきっとひどく捩れている。矛盾している。
 強くあればよい。誰にも害されぬように。俺にも、害されぬように。強くなどあらなくともよい。誰かを傷つけぬように。傷つければそれが返ってくるのだから。

 恨みつらみにしがらみに―――あるいは、仕事仲間への情。
 そんなものに絡みとられた妹は、きっとどちらにもなれないけれど。
 そんな道から逃してやれなかった俺は、捩れたままの想いで、今もまだ、あいつの幸せを願っている。


2010/05/03

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