欲しいものができたから、手を伸ばしてみた。
 それがからまわるようになって、しばらくたった。
 いつまでたっても、それはあまり変わらない。
 そのことに、それなりに疲れて。
 それでもいいや、と思いはじめたことは、最近のことだ。

手を伸ばした先

 次々と流れていく景色に、はぁ、と溜息が洩れた。
 正確には、そんなものにではなく、今この状況に溜息が洩れた。涙が漏れないのは、奇蹟だと思う。
 ちらりと伺った肩には、綺麗な赤い髪に包まれた頭。
 隣の席で、意識を眠りの世界を飛ばしながら僕の肩にもたれるのは、誰より愛しい龍。
 はぁ、と溜息が洩れる。ものすごく幸せで、ものすごく辛かった。

 色々あって、彼女と旅行することになった。
 ここ数日、様々なものを見た。それは、長く野生をやっていたときに、ふらりと訪れていた場所であったり、そうでなかったりする。ただ、共通する点は、彼女に見せたい、と思ったところだということ。見て、できれば笑ってほしいと、そう思った場所。
 その願いは、半分くらい叶った。
 彼女は、僕の予想以上に、楽しそうな顔をした。ずっと見ていたのだ、そのくらいは分かる。
 けれど、予想以上に、心乱されているのも確かだった。彼女がこの旅で一番口にしたのは、磨智、というその名前。
 この後に及んで邪魔をするか、あの愉快犯地龍。
 などとは、さすがに思えない。まったく愉快ではない思いに身を苛まれているだろう彼女に、そんなことは言えない。
 …僕でさえ、そう思うくらい、今の磨智はどこか不安定。ぐらぐらしている。彼女が心配するのも、当たり前だ。むしろ、それが、僕の好きになった彼女だ。
 だから、疲れているのも、分かる。それを自分の前で見せてくれるなど、この上なく嬉しい。
 けれど、これはきつい。ぐらぐらと湧き上がる煩悩的なものが頭を焼いていく。
 朝の町に帰りつくまで、あと1時間程度。それまで…この、死ぬほど幸福っていうかいっそ殺してくださいみたいな感覚と付き合っていながら、馬車に乗っている必要がある。
 がたごとと席が揺れる度、さらさらとした髪が首筋を僅かに撫ぜる。間近に聞こえる寝息が本当に心臓に悪い。これ以上高なったら飛び出るんじゃないだろうか。…心臓が飛び出て死んだ龍など、聞いたことがないけれど。
 いや、近い近いと意識しているからいけないのだ。もっと気がまぎれることを………そしてできれば腹の立つことを想像すればよい。
 そう、例えば、帰ったらケロッとあの二人の仲互いが治ってて、もうなんのために心配したのかと思うくらいだとか。ああ、それでも緋那が喜ぶだろうからいいか。
 そうだ、もっと腹立つこと。風矢がなぜかどっかのとくっついて交配してたとか。すごく腹立つ気がする、前振りなしなら。ああでも、緋那はめでたいとか言いそうだ。
「ん…ぅ」
 なにやら熱でも求めるように身を寄せられた。漏れた小さな声は、あっさり思考なんて吹っ飛ばす。
 それにしても、僕、結局緋那ばっかりだ。分かっていたけど、この状況では痛い。ああ、もうあっさり飛んで帰ればよかったのに。なんでこんなものに乗るって思ってしまったんだっけ。
 もう…これは抱き寄せても、不可抗力だと思う。抱き寄せることしか考えてないことを褒めてほしい。
 膝の上に置いていた手が、ふっと持ち上がりそうになる。のを、ぐっと抑える。
 …我慢。
 だって、抱きしめたりしたら緋那はもうものすごく怒る。照れと嫌がってるのを半々くらいで、結果的に混乱しつくして、怒る。
 そのことが、手にとるように分かる。半泣きで謝ってる自分も想像できる。
「んー」
 ぐい、と身を寄せられた。もういっそ殺してくれ。殺されてもいいから色々したい。
 危ない方向に傾きかけた思考を、頭を振って追いだす。そして、できることなど、一つだった。
「緋那」
 名前を呼んで、片手だけで肩を揺する。
「緋那、起きて。お願いだから」
 少し強めに揺すってみる。
 うん、と寝ぼけた声が聞こえた。
「………ベム?」
 どこかふわふわした声音で、名を呼ばれた。死ねそう。
 とか思った瞬間、肩に感じていた心地よすぎる重みが消える。
「…わ。たし、もしかし、て」
「緋那、落ち着いて」
「もしかして、ずっと、もたれてた」
「ちょっと肩にあたっただけ。そんなにもたれてない」
「でも、ずっと」
「僕は気にしてない」
「…気にしてない、ってこと、は。やっぱり、乗せては、いたんだな」
 これ以上なく赤い顔をして、俯く緋那。
 …なんでカメラ持ってないんだろう、僕。
「………重かっただろ。悪かった」
「重くはないけど」
「けど?」
「…なんか、うなされてたから。起さなきゃと思って」
 思わず嘘をつく。幸せすぎて死にそうでしたというと色々と怒られそうな気がしたから。
「…そうなのか」
「うん」
「別に悪い夢って感じはしなかったけど…」
 夢なんてそんなものか、と緋那は納得したように呟く。
 軽く頷く拍子にあらわになる項に目が行くのがなんとなく切ない。
「…と、ともかく、悪かったな」
 どこか恥ずかしそうに咳払いをする。
「…今回、最後の最後まで、お前には世話をかけてしまったんだな」
「僕は嬉しい」
「…お前、そう言うこと言うなよ」
「なぜ」
「…そういうこと言われると、なんだかいいように利用している気になる」
 いいように利用してくれてもいいんだけど、緋那なら。
 想った言葉を、僕はそっと呑み込む。
 …少しずつ、取り繕うことを覚え始めた。
 それは、いいことなのか、悪いことなのか。
 …どちらでもいい。それで、彼女に近づけるなら、それで良い。
「僕は緋那といれて、嬉しい」
「…そうか」
「うん」
「…繰り返さなくていい」
 そういうことをあっさり言うな、本当に…
 小さく呟かれた言葉は、少しうんざりしている。うんざりというよりは、うろたえているのか。
 少しがっかりするけれど…かつてに比べれば、素晴らしい進歩だ。
「…緋那」
「…なんだ」
「愛してる」
 一瞬、空気が凍る。
 目の前で、愛しい龍が眉を寄せる。躊躇うように、口を開く。
「…私は…愛しては、いない」
「知ってる」
 言って、僕は続ける。自分でも、驚くほど静かに、手を伸ばしながら。
「でも、言いたかった」
 す、と手と手を重ねる。
 それだけで、それ以上など、しない。
「…そうか」
 困ったような声が返ってくるけれど、振り払われることはしない。これ以上なく苦い顔だけれど、拒否はされない。
 今は、それだけで良いと思った。
 それだけで…良いと、思った。
「…もうすぐ、家に着くな」
「うん」
 頷いて、手を放す。彼女がそれを追うことはない。ただ、静かに窓を眺めている。
 分かりきっていたことに、少しだけ胸が痛む。
 それをごまかすように、僕も窓を見つめた。
 それでも、手の平の中、僅かに残った体温に、どうしよもなく胸が絞めつけられた。

 手を伸ばした先、届きそうで届かぬ場所に貴女はいる。
 それでも、いつか届くまで。
 貴女に断絶されきるまでは…諦めずに、待っていよう。


2010/04/28

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