泣き疲れた同居人は手足を投げ出し体だけおれに預けて、ぐーすかと眠っている。
その手も足も、本当に細い。体全体が細い。日々おれと同じものを食べているのに、一向に細いままだ。…頼りない。
頼りなくて無防備で、儚いまでに細い子供。
それは、間違いなく庇護の対象であり、おれにとっては家族に近いものであり。守りたいと思っているのだけれども。
その細い手首を手折りたいと、そう思うことも、なぜか真実だった。
その細い手首を手折りたいと、
…別にサドっ気はないはずなんだけどな。
そっと触れた手首を見ながら、そんなこと思う。
他人がいたがるのを見て楽しかったことはない。他人をぼこって精神の安定を図っていたことはあるけれど。
まあそれだって似たようなものだが、ようはこちらにむかってくるのを打ちのめすのが好きだったのであって、こちらを心底信頼している相手をどうこうしたいと思うことなど、主義に反する…はずだ。
「…けどなぁ」
こうも無防備に懐かれると、考えも変わるということなのだろうか。
夜、眠ろうと部屋に戻る途中。向かいの部屋から聞こえたのは、泣きわめく声と、なにかの割れる音。
扉壊しては言ってみれば、鏡の欠片が散乱する床に座り込んでガタガタと身を震わせる、小さなガキが一人。
どうしたんだと聞いたところで答えは返らず。ただしがみついて泣くだけで。
それでも、こいつが悪夢にうなされることも、錯乱することも珍しいことじゃなかったから、今回もそうなのだろうということくらいは察っせて。
しかたなしにそのままでいれば、空は少し白み始めている。
そろそろ開店準備しなきゃな…。
思うのだが、こいつを起こす気になれない。涙のなごりで腫れた目尻が、白い肌の中で嫌に鮮やかに赤くて、もう少しくらい寝かせていたい。
「……セレナ」
それでも、声をかけてみる。これまた涙の痕の残る頬を、ぺちぺち叩いてもみる。
けれど、穏やかな寝息は乱れない。
ああまったく。怯えるべきは夢なんて言う不確かなものより、目の前の危機であるのに、無防備極まりない。
おれがなんかの間違いでお前が邪魔になったらどうするつもりなんだ、一人で生きていけるのか、お前。
「…甘やかしすぎたかね」
こいつと暮らすようになって、もうすぐ一年。
ベタベタと甘やかしたつもりはないけど、それでも甘やかしていたのだろうか。
性格的にはしっかりしてるし、金勘定は、たぶんおれより上手い。
けど、こいつは弱い。細すぎる手足はその気になれば折るなり押さえつけるなり容易だ。そして、そうなってもこいつは同じことをできない。誰かに手を上げることは、できない。…したがらない。
散々な目に遭ったはずなのに歪まず僻まず平和を求めるその姿が眩しくて、思わずこうして一緒にいるけど。それはただの馬鹿のくだらぬ理想で、搾取されるのを待つだけだということも、おれはよく知っている。身にしみて、分かってる。
「……」
だからそうならないように守ろうと思った。
もうおれは駄目だけど。それでも、そのくらいのことをしたかった。
だから厄介事の下請けなんてやめて、食堂兼酒場になんて転職してみたけど。
それでも、この『街』で生きようとするなら、ある程度の腕っ節は必要だ。
「…なのにお前は弱すぎる」
呟いて、頬を叩くのをやめる。そっと頭を撫ぜる。伝わるのは、たいした手入れもしていないはずなのに手に心地よい髪の感触。無駄に綺麗な金色の髪。
そう、こいつは全部が無駄に綺麗だ。顔のつくりは可愛らしいし、肌艶もやったら艶々と健康的だ。色気はないけど。…たぶん、それは時間の問題で。
整ったその見た目は、細すぎる体と相まって、ともすれば人形のようにすら、映る。
そして、人形のように意志のない頃もあったと、おれは知っている。出逢った頃は喋りもしなければ身動きもせず昏々と眠り続け、魘されぬ夜などなく。起きたら起きたで、こちらをさぐるように見つめるのみ。そんな、人形みたいな見た目で、獣みたいな中身の子供だった。
最初にそう指摘したのは、おれの元上司だった。
―――随分と可愛らしい人形を拾ってきたのだな。
あの時の武行さんの顔を、忘れたことはない。
冷たくもない、熱くもない。強いて言うなら呆れたようなその顔。
おれを拾い、育てた人間がするには、随分な表情だったと思う。
それでも、あの人には手をとるように分かったのだろう、おれの考えていることくらい。
おれがこいつを拾った理由が、揶揄の原因になるようなロマンチックなものでも、ましてや情欲でもなく、単に自己愛だということが。
誰かに必要とされることで、生きることにしがみ付こうとしたその打算を。過去の己に似た少女を救うことで傷を慰める偽善を。
「………セレナ」
ぽつり、と名前を呼ぶ。返る声はない。
あの時の思惑通り、こいつはおれを必要にしてくれる。生きる意味をくれる。…あの時と変わったのは、おれの方。
こいつのことが心底大切になってしまったおれは、自分が死んだ後のことが不安でしかたない。
後を追うなんてマネはあり得ないと言い切れるが、それでも。こいつが一人で生きていけるかは疑わしい。
一人で背負うには重すぎるものを背負う、厄介な少女。
おれよりよほど力を求める理由も必要もあるというのに、平和に殉じようとする人形。
おそらくは守られるのが当然だった、子供。
この雛鳥に似た少女に、自らの身を守る術を教えるにはどうすればいいだろう。
単純に護身術を教えるだけならいくらでもできる。けど、こいつはそれをうまく使えない。こいつの中には、誰かを傷つけてまで生きようという情念がない。…まだ、足りない。
だから、この手はまだ細いままだ。
折れそうに、折ってしまおうかと思うくらいに、細いままだ。
おれがそれを手折ったなら、どんな顔をするのだろう。
おれに怯え、厭うようになるのだろうか。
刷り込みに近い思慕は、ちゃんと消えるだろうか。
そうすれば、お前はもう少し強くなって。
ちゃんと、一人で生きられるようになって。おれはこんなに不安がることはないのか。
はぁ、とゆるく息をつく。こうして、くだらぬ考えも吐き出して、消えてしまえばいい。
思いつつ、健やかすぎる寝顔を見つめ―――先ほどより強い力で額を叩く。
べちんっ。
響いた音は、それなりに景気良かった。
「ったあ…って、なにするんですかぁ!? ライド!」
「朝だ。起きなくてもいいから自力ベッド入れ。おりゃそこまで面倒みねえぞ」
「へ? …あれ? 私、もしかしてずーっとあなたにしがみついて寝てました?」
「おれのパジャマがヨダレでべたべったになるくらいにな」
言ってやると、その頬がかぁあっと赤くなる。面白いくらいに真っ赤だ。
「…ご、ごめんなさい」
「おーおー謝れそしてあがめたてまつれ」
「だ、誰がそこまでしますか!?」
「お前に決まってるだろ。
それになぁ。勘違いしてんじゃねえよ。あがめなくても奉らなくてもいいから、こう言う時はありがとう、だ」
大きな瞳が真ん丸に見開かれる。こぼれそうなくらい見開くその姿は、やはりどこか危うく思える。放っておけない。気がかりだ。
「…ありがとう、ございます」
「よし」
「…ちゃんと起きます。働けます」
「クマ作った顔で客の前に出せるか。寝てろ。どうせたいして客来ねえよ」
「…声、震えてますよ…?」
「また赤字みたいだからな…」
呟くと、セレナは顔を引きつらせて、そうしてぎゅっと拳を握る。
「…げ、元気になったら頑張りますから! 私も!」
「…そうか」
わざとらしく笑って、よしよしと頭を撫でてやれば、お気に召さなかったらしくばしりと手が払われる。
細い細いその手が、一瞬目に入る。
その細い手首を手折りたいと、そう思うことがある。
けれどそれを実行に移すことは永久にないだろう。
結局、あれやこれやと世話を焼くのはおれ自身のためなのだから。
こいつの信頼を失った後、おれがどんな生き物になり果てるのか。
それは、想像するだけで嫌になる未来だから。
願うくば。
この身勝手な衝動が胸を突き破る前に、お前がもう少したくましくなってくれますように。
2009/06/21