嘆いて元に戻るのなら、いくらでも泣きわめいて取り乱して詰りたかった。
 けど、そんなことは無駄なのだと、冷めた頭で悟ってしまっていた。
 そう、冷めたのだ。彼への恋心とかいうものも、きっと。―――けれど、聡明にはなれなかった。
 冷めたぶんだけ捻じれて、ひどく諦めの悪いこの頭は、彼への執着を捨てることを許さなかった。

嘆いて元に戻るのなら

 ベッドの上で体を起こした彼は、部屋に入ってきた私をちらと見つめ、小さく笑う。
「どうしたの?」
「…用事がなければ来てはいけませんか」
「どっかで聞いたことある台詞だねえ。いつもと立場が違うじゃない」
 あはは、と明るく、いっそ楽しげに笑う遥霞。
「…それは、あなたがいつもと違うからですよ。怪我人をいたわるのは当たり前でしょう?」
 彼の腕には、服で隠されてしまっているけれど、包帯がある。
 さらに、その腹には、縫い合わされたばかりの銃創がある。
 …心配するなと言う方が、無理だ。
 なのに―――
『文句があるなら…精々俺より強くなってから言うんだね』
 なのに、目覚めて告げられたのは、そんな言葉で。
 思わず逃げるように病室を出てきてしまったのはつい数時間前だから、そのことを揶揄しているのかもしれない。
 ふぅ、と軽く息をついて立ち上がる。これ以上、楽しそうな笑顔を直視していたくはない。…怪我をして、そんな顔をされるのは、辛い。
「なにか飲みたいものありますか?」
「いや、別に。…でも君が口うつしで飲ませてくれるとかならなんでもいいよ♪」
「では悪くなった牛乳を探してきます」
「…悪くなった牛乳?」
「牛乳、嫌いじゃないでしょう? ご要望通りの方法で、腹下すまでたっぷり飲ませてあげるので遠慮なく」
「いや、そうだけど…腹下すまでなんだ…? …怒ってるなら怒ってると言って…?」
「怒ってません。呆れているだけです」
「そう…
 …まあ今は本当に喉とか渇いてないから。それより黙って傍にいて?」
 にっこり。
 そんな擬音が聞こえてきそうな、楽しげな笑みが向けられる。
 私は黙って、ベッドサイドの椅子に腰を下ろす。
 それを見てその笑顔がより深くなるのが、また少し不愉快だ。
「…そんなに怖い顔しなくてもいいのに。怒ってないんでしょ?」
「ええ。怒ってはいません」
「怒っては、ねえ」
 たっぷりと含みを含んで呟けば、彼は低く笑った。
 先ほどまでのわざとらしいそれとは違う、静かな表情。
「なら、悲しい?」
 一瞬、息が詰まった。
 素直に頷こうとして、止める。
「言わなきゃ分からないんですか?」
 代わりに紡いだのは、肯定に限りなく似た言葉。
 決して頷きたくないし、かといって否定するわけにはいかなかった。
 だって、その唇にあるのは、あまりに嬉しげな笑み。
 かつてどれほど焦がれようと見せてはくれなかった、朗らかな笑顔。
「いや。言わせたい―――それと、泣かせたい、かな?」
「泣けばあなたの回復が早くなるんですか?」
「俺が反省するかもしれないじゃない。もう少し慎重になるのかもしれないよ?」
「心にもないことを言わないでください」
 ―――そんなことをすれば、また同じことをするのでしょう?
 こぼれかけた言葉を必死で飲み込む。
 駄目だ、それを言ってしまえば―――もう、本当に、駄目になってしまう。
 分かっているなら、と笑いながら腹の傷を裂きかねない。
 けれど、生まれた不自然な沈黙を埋めるのもまた、不穏な言葉。
「心にもないこと、じゃなくて、心がないのかもよ」
「…馬鹿なこと言わないでください」
「馬鹿なことかなあ?」
「馬鹿馬鹿しいことですよ」
 静かに答えた言葉に答えはなく、代わりにぐいっと腕を引かれる。自由な左腕でだきよせられる。
 いつもの利き手よりずっと振りほどきやすい力。…それでも、いつものようにはねつける気にはなれない。
 引き寄せられるまま胸に体を預けて、そっと目を閉じる。すると、唇が塞がれた。かと思うと、軽く噛みつかれる。
 慣れたことだから、驚きはしない。唐突だと思うし、意味がないと思うけれど。それでも、触れ合う唇に、こちらを抱き寄せる腕に、確かな熱があることに安堵する。
 否、安堵というよりは、未練かもしれない。
 もう、こんなことをしたところで、意味なんてないのに。
「……っふ……」
 ぼんやりとした思考は、自分の声で破られる。
「ざけ、ないで。怪我人のくせになにしようとしてるの…」
「怪我人だからこそ慰めてもらおうかと思ったんだけど?」
 いつの間にかブラウスの下に入っていた手を今度こそ払いのけて、声を低くする。
「寝ぼけたこと言ってないで寝てください。絶対安静です」
「ちょっとくらいいーじゃん、大袈裟なんだよ」
「…怒りますよ」
「どうぞご自由に?」
 言って、彼は手を伸ばす。その行先は、顎。そうして与えられたのは、違えようのない嘲りをこめた囁き。
「―――どんな理由であれ、手負いの人間の腕の一本も振り払えない君に、俺のことが止めれるならば」
「……」
 く、と喉が鳴る。それでも、視界が潤むことはなかった。
 何も言えないまま、ただ見つめかえす。
 すると、彼はそっと目を閉じた。そのまま、呟く。
「……泣くかと思ったのに」
「泣きませんよ」
「残念」
 目を閉じたまま、その唇はゆっくりと弧を描く。
「君の泣いてる顔が好きだよ。癒される。
 だから、俺以外のために泣かないでね」
「…勝手なことを」
 幾度となく繰り返された言葉に、私も幾度も繰り返した答えを返す。
 勝手なことを。勝手な人だ。勝手な―――馬鹿だ。
 そして、彼の続ける言葉も幾度となく繰り返したものと同じだ。
「うん、勝手だよ、俺は。君とは違うんだよ」
 突き放すような言葉にも、するりと離れていく離れていく指先にも、欠片の未練も見えない。
 けれどその指がこちらを縛ろうとしたこともある。…その手が、私を『街』へ連れてきたのだから。
 それはもうだいぶ昔の話のことにも、つい最近のことのようにも感じる。
 確かなのは、彼の中でそれが過ちとして処理されたということ。誤った分を、なにかで必死で取り戻そうとしていること。
「……そうですか」
 ―――それが血を流して私を守ることだというのなら、そんなことは止めてとすがれたけれど。
 そうではないと気づき、冷めた頭は、今日も淡々とした相槌だけを落とした。
 それきり、会話は途切れる。
 彼は小さく笑って、「おやすみ」と呟いた。


 その顔が本当に寝息を立てたのを確かめた後、そっと立ち上がり、音を立てぬように扉を閉める。
 夜の医務室は、静かだ。どこかでなにかの機材が動く音が聞こえるが、それだけ。今ここにいるような重症者は遥霞しかいないから、本当に、静かだ。
 静かな空気は、思考をずるずると過去に連れていく。
「……」
 私の過去の大部分には、彼がいる。いない時期を探す方が難しい、幼馴染だ。今や血を分けた家族よりも長い時を共有する男だ。
 けれど、その時間にはきっと、たいした意味はない。
 だって、幼い頃から、優しくなんてなかった。身勝手で独りよがりで、それでもひたむきな子供だった。
 否、彼には子供時代などないのかもしれない。
 子供でいられずに、大人になろうとした。けれどなれなかった。大人にも子供にもなれずに、そのまま立ち止まってしまった。
 だから私はいつまでも彼にとってただ幼馴染なのに……長じた価値観と体はそれでは不自然だと理屈をつけて、恋人と言う役割を与えただけ。
 そっと唇に触れる。噛みつかれた場所が、まだ少し痛む気がした。拒みたくはないという事実が、胸すらも痛ませる。
「……っ」
 こぼれかけた嗚咽を必死で噛み殺す。そんなことに、なんの意味もないから。
 嘆いて元に戻るのなら、いくらでも嘆き過ごした。彼が人を傷つけ傷つけられる道から戻ってきてくれるなら、涙が枯れても構わない。
 嘆いて、彼が救えるというなら、なんだってしたけれど。
 そんなことはきっと、無意味なことなのだ。
 私は生きる理由になりえないから。彼にとってのそれそれは、別のことだから。死ぬことを踏みとどまらせる理由には、かろうじてなっているようだけれど。
 だから。
 彼のためには泣かない。意味がないから、泣けない。きっと、泣くよりは、笑っている方がいい。
 泣くのは、いつだって自分のためだ。
 彼が傷つくのが辛くて。彼と分かりあえぬのが辛くて。
 私はもう、自分のためにしか泣けない。
「……し……る、のに」
 愛してるのに、と。
 彼の前では紡げなくなった言葉は、乾いてひび割れて響く。
「どう、して…」
 どうして、私達は、互いに傷つけることしかできなくなったのだろう。
 嘆くことなど意味はない。なのに、こんな時、涙を止めることができないのだろう。

 嘆いて元に戻るなら、それはなんて甘い幸福。
 甘い利己心しかない私達には、きっと届かぬものなのでしょう。


2009/08/10


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