優しく笑う人だったと思う。
困ったように優しく笑って、悲しくなるくらい優しい言葉を告げる人。
俺を飽きることなく撫でた手も、優しかった。
そのことを、よく覚えている。
けれど。なぜだろう。
いつだって、思い出すのは、遠くなる背中だけだ。
あんなにも、傍にいたのに。思い出すのは、不思議と背中なのだ。
あなたの背中しか思い出せない
ある日、風邪をひいた。
こほんこほんと咳こんで、ぼうっと寝ころんでいると、どこかへ消えていた兄が帰ってきた。
「達臣ー。熱下がった? 上がってない? 死んじゃダメぇええ!」
とってもうるさい声とともに、帰ってきた。
「……兄貴」
色々言いたいことはあったのだけれど、こほん、と咳しかでなかった。
「達臣ぃ! 死んじゃ嫌ぁ! 駄目ぇ!」
「兄、貴…」
頭痛いから叫ぶの止めて。ゆさぶられてると気持ち悪い。死ぬ。ごほっといく。
言いたい言葉は、やはり言葉にならない。
俺を見てうるうると心配そうに潤む目がかなり鬱陶しい。けれど、ぺたぺた触られた手は、冷たくて心地よい。少し、呼吸が楽になった気がした。
「…あ、笑った」
「あ?」
「今ちょっと笑ったね。…ほっとした。笑う元気、あるんだね」
言って、彼はにこりと笑った。
なにが面白いのか、にこにこと。
にこにこと、いつだって笑っている。
「ほんと、心配だったんだよ? 朝起きてこないと思ったら、熱出してたし」
「…うん」
「まったくもう、君、薄着で夜の遅くまで本呼んでるからだよぅ。駄目だって言ってるじゃん!」
唇をとがらせながら、兄はずかずか布団の脇へと歩みよる。
そして、すとんと腰を下ろしたと思うと、抱えていた紙袋を置いた。
「それ、なに?」
「林檎」
「…林檎」
ぼんやりと繰り返す。赤い実は、艶々と美味しそうだった。
「風邪といえば林檎だよ。ウサギさんとネコさん、どっちがいい?」
「普通にむいてくれよ! むしろ自分でむくよ!?」
「なんで!? あ、あれか、男の子だからむしろライオンとかの方がいいと!? でもにーちゃんそこまではできないし…」
「そーゆー問題じゃねえ! 普通にむいてって言ってるだろ!?」
「でも…可愛い弟と可愛いものを並べたい僕の気持ちは…?」
「知らないって…俺、幾つだと思ってんだ…?」
ちなみに、13。兄が後生大事に大騒ぎしながら祝ってくれるから、忘れようがない。
色んな意味でうんざりとした思いで文句を言う。ごほ、と咳が出た。
「ああもう、ほら、言わんこっちゃないっ。横になりなさい!」
ぼす、と布団に押し付けられる。
冷たい布団が肌に心地よい。そして、額に添えられた手も冷たい。
冷たい……水に浸したような、不自然な冷たさ。
唐突に、そう思った。
「まぁ、寝る前に少し腹にいれた方がいいね。
今から剥くから…」
「兄貴、今までどこいってたんだ?」
優しい言葉を、ぶつりと遮る。
林檎に添えていた手が、びくっと震えた。
「…どこもなにも、買い物」
けれど、それは一瞬で、にこりと微笑む。
「ただの買い物で、お前の心配することなんて、なにもなかったよ」
よしよしと頭を撫でられる。
そっと目を閉じて、はぁと息を突く。
そんなもの、嘘だ。
だって、その手は鉄くさい。どれだけ洗っていても…血の匂いが、する。
優しい手、だけれど。それは、いつものことで。特に動揺するようなことでは、ない。
買い物帰りに、なにかあったということなのだろう。
自衛のためなのか、それとも、また誰かを助けてきたのか。そんなこと、知らないけれど。
どちらだったとしても、強く問いつめれば、きっと答えが得れる。ごまかせないだろう。
けれど、結局、言葉は喉の奥につまったまま、咳に紛れる。
慣れ切った痛みと共に、するするとナイフを動かす兄を見つめる。
赤い皮が、つるつるとむけていく。胡坐をかいた兄の足元に、皮がたまっていく。
赤い皮が、赤い色が、兄の傍に、降り積もり。赤い色に、染めていく。
―――連れて、行かれる。
兄が、どこかに、いってしまう。
不意に感じた嫌な心地に、思わず手を伸ばす。
服の裾を握りしめる俺に、兄はきょとん、とした顔をした。
不思議そうに俺を見つめて―――すぐに、にこりと笑った。
「大丈夫」
そんなの、嘘だ。あんたは、いつだって俺に嘘ばかりつく。
「大丈夫だよ、そんな顔しなくても。僕は、達臣の傍に、ずーっといるから」
そう思うなら、なんで、俺を傍に置いてはくれないんだ。
守るのではなく、共に戦うと、そう言ってくれないんだ。
「ほら、食べたら早く寝るんだよ? お前になにかあったら、僕はどうしたらいいのか分からない」
ぐしゃぐしゃと髪をなでられる。
慈しむようなその手が、こんな街でどれだけ貴重なものか、知っている。
本当は、俺なんかよりずっと、守られなければいけない人だと、そう思う。
だるい身体を動かして、そっとその手を払いのける。
「達臣、反抗期?」
「あんたが俺をいつまでもガキ扱いしすぎなんだよ」
鬱陶しい、と呟いて、そっと目を閉じる。
それは、ただ兄を視界から遮断するためだけの行為。優しくて悲しい兄を、これ以上見ていたくなかったから、そうした。
「あ、もう眠い? しかたないね、熱、あるし」
俺は答えず、目を閉じ続ける。
けれど、あくまで穏やかに続くぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられる感覚に、いつのまにか本当に眠たくなった。
なによりも逃れたい―――逃れ難い安堵を感じながら、意識は遠くなっていく。
―――そうして。
俺は、夢から覚めた。
ぼんやりと天井を見つめる。そこにあるのは、父の絶えず吸っていた煙草で黄ばんだ天井ではない。夜闇の中うっすらと浮かび上がる、クリーム色の天井。
生家のものではないが、見慣れた、天井だ。
「…いつの、夢だよ」
ぐしゃり、と髪をかき混ぜる。熱の所為でだるい頭が、割れそうに痛くなる。
しばらくぐしゃぐしゃとかき混ぜていると、どんな夢をみたのかを忘れる。
それでも、覚えているのは。忘れがたいのは。どこまでも俺に甘く、優しかった兄のこと。どこまでも自分を顧みないまま逝った、俺の兄のこと。
「……兄貴」
ぽつり、と呟く。
応える声は、いつも傍にあった。
ずっと…傍にあるのだと、思っていた。
だけど。
「俺が、殺した」
いつのまにか洩れた言葉は、乾いてひび割れて、消える。
俺の無力が、彼を殺した。兄は命がけで俺を生かした。俺は生かされ、ひとり残った。
もう、あの兄はいないから。今、熱が出ても、ひとり眠っている。
じくじくと胸が痛む。自分にこんなにも痛む心があることを、初めて知った。―――けど、もう、慣れた痛みだ。
汗で衣服が張り付く感覚を感じながら、なんとなく身を起こす。
熱がひどくて自室で眠ることにしたのが―――昼飯時だったから。随分と寝ていたことになる。
思いながら、喉の渇きを自覚する。ならば、ベッドから降りようとした。
そうして、ふと気付く。たっぷりと中の注がれた水差しと、小さなコップ。ついでに、土鍋。開けてみれば、冷めたおかゆが入っている。どちらも、智華の部屋で見たことがあるような気がするから、彼女の私物だろう。
そして。それらの傍には、小さなメモ帳があった。
『私をあがめたてまつりつつ、温めてなおして食べなさい。』
名前は、ない。けれど、アホらしいほど尊大な物言いと見慣れた筆跡で、誰が書いたか、など、分かりきっている。
『夏風邪は馬鹿がひくものらしいわよ』
そう言って散々人を馬鹿にしながら笑っていた希羅は、実にこまめに気をきかせてくれたらしい。
けれど、気をきかせるなら、最後まで気を配ってほしかった。
「…病人にカツはないだろ…」
最後まで気を配って、粥を無事に守ってほしかった。カツをつっこませたりしないで欲しかった。
こういうことをするのは、まず慶だ。他にいたら泣けてくる。一瞬、上司の嫌がらせというのも考えたが、アレはそういうことはしない。やるなら、笑顔で死ぬほど苦い薬でも無理やりかっこませて『君のためを思ったのにv』とか言いたがる。
無意味にシナを作る姿までリアルに想像できて、かなり気分が悪い。吐き気がしてくる。色んな意味で。
けれど、思わず抑えた口元から漏れたのは、重い溜息だけ。
鈍い痛みを訴える頭も、どこまでも重い。
どうやら心配してくれて、気を配ってくれる者は、それなりにいる。
それなのに―――もう、兄はいない。
真っ先に暑苦しくいつも心配してくれた兄は、もう、どこにもいない。いつも浮かべていたへらりとした笑顔さえ、遠い。
なぜなら、覚えているのは、最後の笑顔。そして、音の伴わない言葉。血に濡れた唇から紡がれたブジデヨカッタ。
最後の最後まで残ったのは、途方もない優しさ。
そして、思い出の中にあるのは、いつもその背中。
一度も並べず、背中ばかりを見ていたから、いつも背中ばかりを思い出す。
そのことが、どうしよもなく悲しい。
狂おしいほどに、悲しい。
そっと手を伸ばす。夜闇の中、白く浮かび上がる腕は、恐らく、まだ頼りないまま。
頼りないまま―――兄に、届かない。
「…兄貴」
弱った心を熱の所為にして、記憶の奥の遠くなる背中に手を伸ばす。
届かないことを知っていても、今もまだ伸ばしている。
「俺は……」
あんたに守られてまで、生きている価値なんか、なかったのにな。
それなのに―――あんたに守られたから、価値を得てしまった。あんたが最後にくれたものを、無駄に使うことなど、出来なくなった。
乾ききった瞳が痛い。こんなもので、もうなにも見えないと、そう思う。
それでも―――浮かび上がる背中は、悲しいほどに鮮やかだった。
2010/04/28