夢魔の少女は、己の名を思いだした。
 名を、かつての生活を。かつて人だった己が、どうしてモンスターになったのかも、すべて。
 ―――ヴィオリナ・エイリーというその少女は、死にゆくその時に願ったから。
 もしももっと、何もかもを魅了してしまえる力があれば、と。
 願ったから、それを聞き届けた何かによって夢魔になった。
 神か悪魔か、何もとも知れない存在によって、地に縫い付けられた。
「テオ。おかえりなさい」
 すべてを思いだしたと語る少女は、今日も穏やかに笑う。
 かつてと少しだけ違う、けれどやけに幸せそうな笑顔。
 それを真っ直ぐに収めて、彼はひどく小さく頷いた。

 すべてを思いだした彼女に、彼は何も聞かなかった。お前は死人かとだけ確かめて、彼女の過去を問いただすことはなかった。
 相変わらずじゃれつかれればかわして、たまに添い寝をされては嫌な顔をされ―――
 そうしているうちに、進級の為の論文を提出するまで、あと少し。
「テオ。どうしたの? なにいつにもまして辛気臭い顔してるの」
「……やかましい」
 この春―――彼は、進級する。
 それはもはや揺るがない事実。決まり切ったこと。
 椅子に座り、論文を見返すテオフィルはぼんやりと思う。
 一つ上の級へと進む少年は、ここではない部屋に移る。この寮の隣にある、もう一つの寮へと移るのだ。
『正式に『いいよ』って招かれたらね。モンスターはその建物に好きに出入りできるのよ?
 わたしのように、人にイイコトするような種類のは、特に、ね』
 彼の耳の奥に、いつかの言葉が蘇る。
 このか弱いモンスターは、死人は。
 この建物から、出ることはないだろう。
「やかましいって。あなた。なんでもかんでもそれですませないでよ。
 それで納得させようなんて、おバカさんのすることなんだから!」
「お前には―――……」
 関係ない、と続けようとした舌がもつれる。
 喉が引きつり、ひどく痛む。
 うつむいたテオフィルに、ヴィオリナはさっと顔を曇らせる。
「…テオ、大丈夫? 具合悪いなら、ちゃんと寝て。…気分悪いなら、その……愚痴くらいは聞くわよ?」
「……そこは優しく抱きしめてあげるじゃないんだな」
「え?」
 彼らしからぬ言葉に、少女は驚いたように眉を寄せる。
「…前のお前ならそういうだろうに」
「…それは。…その、迫る方法を変えたのよ。あなた、最近顔色も悪いし。うっかり食い殺しちゃったら嫌だもの」
「なぜだ」
「え?」
「お前はモンスターだろう。僕が生きようが死のうが、関係ないはずだ」
 いつも通りの冷たい言葉に、ヴィオリナはひどく顔をしかめる。
 そうして、痛みに耐えるような顔をしたのは一瞬。
 すぐに明るく笑って、彼の頬を包み込む。
「……それはそうだけど。わたし、あなたのことは、好きだもの」
「……そんなこと、知るか」
 乱暴に椅子を引いたテオフィルは、向かい合うモンスターを見ない。
 奇妙に痛む喉を軽くなでて、黙ってベッドに向かった。



 あくる日も、彼は変わらず講義を受けて、変わらずに帰路につく。
 古びた廊下を歩いて、窓からのぞける庭を見つめる。
 季節は冬の終わり。
 どっさりと降り積もった雪が解ければ、きっと。美しい花々が顔出す季節。
『楽しみね。やっぱり寒いよりあったかい方が、キレイよ色々』
『…お前の主食の雑草が生え出る季節だしな』
『やめてよその言い方! テオ! テオがちゃんと観念して毎日わたしとやってくれたら、そんなウサギさんみたいなことしなくていいんだからねわたし!
 …第一、花は食べるんじゃなくて見るものでしょ。野暮なんだから』
 己に関係のない話し声の満ちる廊下を歩きながら、彼の耳に蘇るのはかつてのやり取り。
 やかましい声。無遠慮に触れてくる体。
 ―――どれだけ触れあったところで、朧ろな温度しかない。幻の身体。
『テオ。これすっごくキレイ。なんていうの、このキラキラ』
 彼にとっては講義の道具でしかない、くだけた水晶に目を輝かせる姿を思い出す。
『見なさいテオ! 歌の一つも知らないあなたに良いものを見せてあげる! 夏に海に行くとこういう刺激的な格好の子がいっぱいいるのよ!
 夏じゃなくてもわたしがいるといつでも水着見放題! いいでしょうお得でしょう! 感謝してわたしにその身を差し出しなさいな! …なんで布なんて投げてくるの、バカ!』
 いくらあしらっても、馬鹿みたいにからんでくる姿を思い出す。
『おかえりなさい』
 毎日聞こえるようになった声が、耳の中でうるさい。
『そーよ。まったくもう。あなたが食わせてくれないから、ひもじいったらないわ』
 ならばいなくなればい。彼のことところから消えればいい。
 ―――お前本当つまらねえよな。泣きも笑いもしなくてさ。気持ち悪いよ。
 この学園で幾度も聞いた言葉が蘇る。
 その通りだと頷いてきた言葉が蘇る。
 ――――そうさ。
 つまらなくて、愚かで。優秀なフリをすることでしか生きていけない、どうしよもない男のことなど。
 誰も気にしないはずだったのに。
『あなた、とてもおいしそう』
 ――――それなのになぜ、お前は。よりにもよって僕のところに来たんだ。
 とろける笑顔を思いだす。
 否、思いだすことなどあり得ない。
 もはやいつでも脳裏の片隅を占領する、朗らかな笑顔。
 体中に痛みを与える表情にきつく眉を寄せて、テオフィルは扉に手をかける。
 過ごす時間は残りわずかな、寮の自室。
 扉を開いた彼に、今日も、優しい「おかえりなさい」が響いた。


「おかえりなさい、テオ。…あなた、ホント、最近はいつもひどい顔ねぇ」
 苦笑する同居人―――同居モンスターとでもいうべき存在を、テオフィルは黙って見つめ返す。
 静かに扉を締めて、黙ったまま本棚脇の椅子へ腰かける。
「…テオ? 大丈夫?」
「春までだ」
 腰掛けたまま、彼は言う。
 彼と向かい形で立つヴィオリナは、何も言わない。
「春になったら、僕はここを出る。
 …お前から付きまとわれるのも、終わりだ」
 静かに冷たく、声は響く。
 降り積もる雪に、あるいはいつかの雨に。よく似たその声色に、彼女はふわりと笑った。
「うん…そうね。知ってる」
「…は?」
「何を驚いてるの、わたし、ここのことは知ってるの。
 テオに会う前に、いろんなお話を聞いていたのよ?
 テオは17になったら、違う寮に移るの。…わたしはついていけないわ」
 言って、ヴィオリナは少年へと背を向ける。
 気になる本でもあるように、背表紙に目を向け始めた。
「…お前、それを。それで…いい、のか」
「…いいのはテオよ?」
 背をむけたまま、彼女は言う。
 背を向けたままの彼女は、彼の表情に気づかない。
「わたしはその寮にはついていけないわ。ここと違って、しょっちゅう教師が来るんでしょ?  じゃあ、いつか消されちゃうだろうから…だから。
 だからテオは、わたしから解放されるわよ?
 …良かった、わね」
 いったい、テオフィルがどんな顔で彼女の言葉を聞いているのか。
 それを知らない彼女は、振り向いて確かめようとした。
 きっと、清々したとでもいうような顔をしている。
 そのはずだった。
 ―――けれど。
「…おかしな顔ね。おバカさん」
 けれど、彼女の目に飛び込んできたのは、眉を下げる少年の姿。
 何か言いたげに唇を震わせ、長い前髪の奥の瞳を細くする。
 ―――まるで、傷ついているような顔じゃない。
 予想外の表情に、彼女は表情を作り損ねる。
 彼と同じような、己の心に素直に寂しい顔をさらしかけ―――やんわりと笑った。
「やあね。本当…なんて顔してるの。
 そんな切なそうな顔、しないで?」
「…馬鹿が。錯覚だ」
「うふふ。…そう。わたしは馬鹿ね」
 ふんわりと笑って、彼女のできる限りの力で笑って、そっと目をそらす。
 彼の顔を見ながらは、言えなかった。
 今、彼を。いつものようにじっと見ていたならば―――
「だからやめて。勘違いさせないで」
 きっと、泣いてしまう、と。
 彼女は己の腕をかき抱いた。
「わたしのこと好いてるような顔してると、本当に全部食べちゃうんだから。おバカなテ」
 テオ、と。
 言うより早く、どん、と壁を殴りつけるような音が鳴る。
「馬鹿を言うな。……モンスターが、そんな、馬鹿を!」
 背を向けた彼女を壁との間に閉じ込めるような形で、彼がそこにいる。
 驚いた彼女は彼へと視線を戻す。青い瞳に飛び込んでくるのは、さらに驚くような光景。
「好きに、など…」
 驚きで表情を凍らせる彼女に、彼は苦し気に言葉を続ける。
 喉を引きつらせて、舌をもつれさせて―――
「…やめて」
 ―――そんな、…あの日のわたしみたいな顔、あなたがしないで。
 この少年が苦しむことが、ましてや死んでしまうことなど。
 彼女には耐えられない。
「好きなわけがない」
 くしゃりと苦し気に顔を歪めた彼女を見下ろして、テオフィルは続ける。
 かすかに身体を震わせて、震える舌でとぎれとぎれに。
「お前は、馬鹿で、諦めが悪くて、弱くて、下品で」
 見下す為のセリフが、小さく震える。
「…好きなわけがない」
 何も言わない彼女に、ポロポロと振り注いでくる。
「好きになど、なるものか」
 いまにも割れてしまいそうに、ひび割れた声色。
 かすかに震えた手足。
 そのすべてに、彼女は言葉を奪われる。
 その目で、じっと彼を見つめる。
「お前は…お前は。退治されてしまうものじゃあないか」
 最後の言葉は、ほとんど吐息のようだった。
 ため息のような言葉を吐いて、それきり彼は何も言わない。
 何も言えずに、肩を震わせ。じっと目を閉じている。
 かたかたと震えて、閉じた目から涙をこぼれさせている。
「テオ」
 ぐしゃぐしゃに歪んだ顔のまま、彼女は彼へと手を伸ばす。
 頬に触れ、涙をぬぐう仕草に、彼はやはり身体を震わせるのみ。
「…テオ」
 そんな彼に、彼女も何も言えない。
 なにを言っても―――何を言っても。この涙を止めることはできない。
 それでも。
「テオ。…泣かないで」
 それでも、彼女は願う。祈る。
 泣かないで欲しい。―――笑いかけて、欲しい。
 口にできない願望の代わりに、彼女はただ繰り返す。
「テオ」
「……ヴィオリナ」
 幾度目かの呟きに返る声に、今度は彼女がびくりと身を震わせる。
 彼の口から、初めて紡がれた響き。
 何も言えなくなってしまうくらい―――胸が苦しくなる響き。
「僕は、お前など…お前など、僕は……!」
 所在なく頬から滑り落ちた手を見ながら、テオフィルは告げる。
 きつく閉じた目の端に、涙をにじませながら、告げる。
「ヴィオリナ―――死ぬな」
 びくり、と細い肩は再度揺れる。
 少女の手の平もわずかに震え、軽く拳を作った。
「…ここに、いて、くれ……」
 しとしとと、彼を見上げる彼女の顔が雫に濡れる。
 かつての冷たい雨と違う、あまりに熱のある、塩辛い水。
 次から次へと降り注ぐ雨に、彼女はゆるゆると手を伸ばす。
 人を誘い、魅惑し、食い物にする為の存在としてよみがえった手。
 現のモノに触るためには、弱く、脆くなることが必要な、彼女の手。
 華奢な幻の手は、なにもできない。
「…ごめんなさい」
 ただ、震える少年の背中を撫でるくらいしか、できない。
「テオ、ごめんなさい」
 か弱い腕で愛しい少年を抱きしめたヴィオリアは、苦しい喉から声を絞り出す。
「ごめんなさい」
 ―――あの日、死にたくなかった。
「ごめん」
 ―――もっと、もっと早く。あなたにあって、こうしていたら。
「ごめんね、テオ」
 ―――あなたをあたためることが、できたかもしれないのに。
「テオ……!」
 温度のない腕で彼を抱き締めながら、彼女も涙を流したかった。
 泣いて、すがって。助けてほしいと叫びたかった。
 けれど。
「…ねぇ、テオ」
 すべてが取り返しのつかないことだから、彼女は笑う。
 せめて笑って、歯を食いしばり。流れようとする涙を止める。
「わたし、あなたの…
 あなたの恋人に、なりたかった」
 ぎこちなく笑って、彼女は小さく夢を語る。
 馬鹿なことを、と。笑い飛ばしてほしいと。それだけを願って、そう言った。

 囁いたきり、何も言わない彼女に、彼はうつろな目をむける。
 彼女はなおも、泣きそうに笑って彼の背を撫ぜている。
 小さく震える少女の背を抱き返した少年は、滑らかで朧な感覚に、ぎりと歯を鳴らした。

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2015/10/12