雨が降っていた。
雨が、ざあざあと。冷たい。
雨が―――降っている。
寒い、冷たい。誰か、誰か。
少女は声なき声で言う。
それすらできなくとも、少女は思った。
誰か、誰か。わたしを――――………
6
朝。ぼんやりと目覚めたテオフィルは、飛び込んできたモノに目をむく。
目をむき、慌てて寝台から降りようとして、落ちる。
ドタン! 派手な音が響き、彼は二重の意味で顔をしかめる。
「………な、んなんだ」
テオフィルは腰を抑えて起き上がる。
彼の寝ていたベッドの中には、少女がいる。
―――つまり、一緒に寝ていたのか。
ぐらぐらする頭を抑えて、彼は大きく舌打ちする。
もぐりこまれても気づかなかった。朝まで気づかず、気持ちよく寝ていた。
そのことが、彼はたまらなく不愉快だった。
「……オイ、お前」
苛立ちをぶつけるように、未だ眠る夢魔を呼ぶ。
毛布をはいで、軽く肩を揺さぶる。
「お前がどこで寝ようと自由だが、僕と一緒に寝ていいなどと言っていない。
オイ、……オイ!」
呼ぶ声は険しくなる。
肩を房ぶる力も強くなり、細い首がガクガクと揺れる。
―――まるで、ただの小娘だ。
何度も思ったその言葉は、その時、テオフィルの心をひどく冷やした。
「起きろ! 馬鹿女!」
押し殺した叫びに、夢魔の瞼がピクリと動く。
何度か震え、青い瞳がぼんやりと開かれる。
「……テオ」
「…なんだ」
ぼんやりとした瞳に相応しい、ぼんやりとした声色。
寝ぼけているかのようなその姿に、テオフィルは不機嫌を隠さなかった。
刺々しい声と、表情。
それをぼんやりと見つめる少女は、すっと手を伸ばす。
「…テオ?」
寮の手で彼の頬を軽くたたく夢魔は、何度もそう繰り返す。
テオ、テオ、テオ。
際限なく繰り返されそうなその声に、彼はハン、と鼻を鳴らす。
「お前。夢の中こそが本領発揮できる場所だのといっていたクセに、なんだそのざまは。
寝ぼけるなよ。夢魔」
少女の手の平をばちりとはらった少年は、そのまま背を向ける。
朝の身支度を始めるその姿を、彼女はなおもぼんやりと見つめ―――
テオ、と。小さく呟き、ゆっくりと頷いた。
「やあね。わたしが寝ぼけるわけじゃない。テオの気のせい。勘違いよ」
「そうかもしれないな。お前はいつもボケている」
「なによそれ。…ともかく! わたしは強いモンスターなんだからね。いつもなんてボケてないし、夢の中なんて無敵なの。寝起きにぼんやりなんて。あなたがそういうの好きだったらいいのに、って試してみただけ」
「馬鹿が」
背中越しに放たれた声に、夢魔はきゃらきゃらと笑う。
おかしそうに、たからかに。
大きな目をいっぱいに開いて、彼を見つめていた。
彼のもとに彼女が現れてから、もう幾日も過ぎた。
いったい何日目なのかを数えるのを止めた夢魔は、きょとり、と目を見張る。
「テオ、おかえりなさい。
…今日は本はいいの?」
「…実験の結果も書かなきゃいけないからな。その一部だ」
テオフィルの腕いっぱいに抱えられたのは、黒くしおれた何か。
「これはただのゴミだが。…他人に見られるのも気に食わん」
「…これ、ゴミなの?
わたしには…ゴミだけど。枯れちゃったお花に見えるわ」
それをどさりと机に広げれば、ぽつりぽつりと花の色。
野に咲く花の残骸にしか見えないものを拾い上げ、少女は不思議そうにそう問うた。
「ああ。本当ならこれは枯れない花になるはずだったが。うまくいかなかった。ゴミだな」
「…捨てちゃうの?」
「ゴミだからな」
苛立たし気に繰り返すテオフィル。
その姿をじっと見つめる夢魔が、そうだけど、と花びらをつつく。
「でも、キレイね。確かにこのシオシオなのはどうしよもないけど…
これとか、花びらの色が残ってる。キレイ」
「…お前はくだらぬものにばかり興味を示す」
「あなたは本当に失礼ね。
…ねえ、テオ。これもらってもいい?」
「…それは、ゴミだぞ」
「でもわたしはキレイだと思うの。ダメ?」
「…くだらない」
―――このモンスターは、なぜ。そんなことまで許可を取ろうとするのか。
テオフィルは喉元までせりあがった言葉を飲み込み、さっと背を向ける。
「ゴミなどどうしようがお前の勝手だ。…好きにしろ」
「…さっき、失敗作を他人に見られたくないって言ってなかった?」
念願の許可を得たはずのモンスターは、不機嫌に唇を尖らせる。
それをちらと見たテオフィルは、大いに意地悪く笑った。
「お前は他人じゃない。ただのモンスターだ。どうでもいいな」
「なによそれ! あなた、本当、つくづく失礼!」
彼に言い返す声は今日も高く、実にやかましく響く。
けれどその声は、空気を震わせてはいない。
彼にだけ響く幻に似た声に、今日も少年は顔をしかめた。
その日、テオフィルが扉を開いた途端、かすかな歌が響いてくる。
細く、美しく。どこか頼りないメロディ。繊細なメロディ。
窓を見ながらそれを紡いでいたモンスターが、くるりと振り返る。
「おかえりぃーテオー」
「…お前、なにを歌っていたんだ?」
少女の笑顔が不思議そうな顔へ塗り替わる。
軽く首を傾げた拍子に、今日は結わえていない髪がさら踊った。
「歌? わたし、そんなの歌ってたかしら」
「ああ。やかましかった」
「……やかましくないわよ。うまいっていいなさいよ」
軽く頬を膨らませた夢魔は、すぐに笑う。
にっこりと、朗らかに。いつものように―――
―――いや。
なにかが違う気もする、と。気づけども、少年はその所以に興味がなかった。
「これはね。流行り歌よ。ちょっと前、下の町で流行ってた。
本当に何も知らないわね、テオは」
いいながら、少女は少年へと歩み寄る。
そのままがばりと抱き付いて、肩口へと顔を寄せる。
懐くように寄せられた頬は、今日も彼に柔らかさだけを伝える。
とろけるように柔らかで、誘われるようにしっとりとなじむ。かすかな体温しかない、幻の身体。
「こんなご本ばっかりで。頭でっかちなおバカさんなんだから」
「ほうっておけ」
少女の肩を軽くつけば、それで彼女はすんなりと離れる。
「なあに? またお勉強? 遊ばないの? わたしと楽しく熱く、遊ばないの?」
「黙れ」
すんなりと離れた夢魔は、それでも背中におぶさってくる。
椅子に座る彼の肩へ顎を預けて、軽い身体でもたれている。
「…ねえテオ。真面目なお話。あなたちょっと休まなきゃダメじゃない?」
「……無事に進級したらそれもいいが。今はその時ではない」
「……あっそ。そんな眠そうな顔で。無理しちゃって」
「黙れ」
短く冷たい返答に、彼女は表情を変えない。
いやぁね、と囁いてそのまま黙って彼にもたれる。
黙って筆を動かす彼は、その仕草に何も言わない。
その体勢のまましばし筆を動かし…ふ、と息をつく。
「…オイ。お前」
「え? なあに?」
「歌え」
「は?」
唐突な命令に声を上げる彼女をじろりと眺めて、テオフィルは言う。
あくまで真面目な顔で、己の要求を告げていく。
「眠い」
「はぁ?」
「お前の歌はやかましくて苛立つ。眠気覚ましにちょうど良い」
だからだ、と締める彼に、彼女は数度瞬きをする。
薄く唇を開け、呆れ切った顔をして。やがてぱっと笑う。
「ふん。失礼しちゃう。本当に失礼なおバカね、あなた」
「放っておけ」
「あら。ほうっておかないわ。あなたがわたしに頼み事なんて。気分がいいから聞いてあげる。
愛しいあなたのいうことだしねぇ?」
「言ってろ」
いつも通りのやり取りに、彼女はきゃらきゃらと笑う。
楽しそうに嬉しそうに笑って、彼の耳元に囁く。
「…で・も♡ わたしからもお願いさせてもらうわ」
「言うだけはタダだな。僕は聞かんが」
かりかりと紙に走らせていたペンを止め、テオフィルは冷笑する。
馬鹿にする様な形で固まる頬をつつきながら、夢魔は笑った。br<>
「うふふ。わたしもあなたのいうことなんて聞かないわー。
勝手に添い寝させてもらうわね」
「ふざけるな」
「大真面目よ。まったく。テオが食べさせてくれないから夜にすることなくて。退屈なのよ。夢まで見ちゃったじゃない。もう」
「お前の勝手だろう。それは」
「ま。そうだけど。いいじゃない。寝るだけで何もしないわ。
…こんなセリフを夜魔に言わせるなんて。なんて野暮なチキンかしら」
「黙れ」
どこまでも、なにをやっても変わらない反応に、夢魔は笑う。
―――ああ、なんてかわいい人かしら。
自然とわいたその言葉は、彼女の頬を甘く溶かす。
だから彼女は、冷たい印象の薄青い瞳を眺めながら、いたずらっぽく囁いた。
「でも、テオ。あなたの寝顔はかわいいから。許してあげる。
…まったく、寛大ね。寛大だわ。わたし」
「図々しい能天気の間違いだ。馬鹿が」
不満たっぷり文句たっぷりと全身で語る彼に、彼女はもう何も言わない。
ただ不機嫌な頬に口づけるフリをして、そっと歌いだす。
甘く、高らかな。少し昔の流行歌。
恋や愛を優しく歌うその声に、彼は眠るまで耳を傾け続けた。
2015/10/12