僕は気づけなかったけど。
 あの日、彼女は泣いていたんだ。

  雨に溶けて

「ごめんね」
 君は言う。雨に濡れながら、いつもの笑顔を浮かべて。
「…どうして…」
 どうして僕では駄目なんだ、駄々をこねるように繰り返す僕に、君は優しい笑みを浮かべた。
 その慈しむような笑顔はじくじくと痛む傷口にしみて。
 呪わしい気分になった。
 どうして君をあきらめられるのか。
 与えられる痛みすらこんなにも愛おしいのに、どうして。
「ごめんね」
 君は繰り返す。
 僕がどうしてと聞く度に、同じ数だけ。
 拒絶の理由は決して明かさず、ただ謝罪だけを繰り返した。
「……僕は、君が、好きだ」
「ごめん」
「あいつより、絶対幸せする」
「ごめん」
「―――僕のなにが足りないなんだ?」
「ごめん」
 足りなくなんてないよ。君はなんにも欠けてなんかいない。
 だから、大丈夫。
 君はそう言って、僕を抱きしめた。
「だから、あたしがいなくとも、大丈夫」
 ぶづっ
 と、なにかの切れる音がした。
 激しい雨音すら退けるそれは、己の中から聞こえたもの。
 そんなことを考える間もなく、突き飛ばしていた。
 ばしゃん
 と、水のはねる音。
 そして、君の倒れる音。
 ばじゃっ
 僕は膝をつく。
 そうして―――……………

「……君を……」

 僕はもう項垂れることをしない。
 ただ前だけを見つめて、歩く。
 足の裏に血が滲む感覚を感じながら、山を登る。
 
 もうすぐ、彼女と約束した、あの場所だ。
 春になったら一緒に桜を見ようと、約束したあの場所。

 埋まるならここがいいと君は言ったね。
 その願い、ちゃんと叶えるから。
 君の未来を奪った償いには足りないけど、ちゃんと叶えるから。
 
 ぱしゃっ
 ぱしゃ、ぱしゃっ………

 穴を掘りながら耳に響くのは雨音。
 そして、過去の声。

『ばかだね』

『君を人殺しにしたくなかったのに……………』

 彼女の今際の言葉は、きっと全ての答えだ。

 ごめんね、気づけなかった。
 君が泣いてたことも。

 君が僕を裏切ってなんていないことも。

 いや、気づけたとしても、僕は……

 ばしゃっ
 水がはねる。
 ばしゃっ

 音は絶えない。

 雨音と、土を掘る音。
 濡れた音は全てをかき消していくようで、しだいに君の輪郭すらおぼろげに溶けていく。
 そう、これは雨の所為だ。
 僕の頬が濡れているのも、君の顔が見えないくらいに視界が歪むのも、すべて雨の所為だ。
 僕は泣いてなんていないよ。泣く必要なんてないんだ。
 だって、これが終わったら君に会える。
 僕はすぐに後を追う。
 だから、悲しくなんてないし、後悔もしない。
 こうすれば、僕以外のところにいけないから。

 だから、雨にとけてしまえばいい。
 すべて、全部、君は、僕ごと。
 そうすれば、ずっと一緒だよ。
 だから、雨にとけて……




 それは哀願の言葉。
 なんか事情があって分かれなきゃいけなくてその果てに、みたいな。
 後悔しても遅いから、必死で雨の所為にして。雨に溶けて全てが消えるのです。