階段をおりて、リビングに行くと、いつもしっかりものの炎龍が、壁に張り付きがくがく震えていた。
些細な変化
「緋那、ちゃん?」
問いかけると、一点を見つめていた眼がこちらに向く。
ぎぎぃぃい、と音でも立てそうな感じに、緩慢な動作で首がねじられた。
怯えたような眼も、その動作も、実に彼女らしくない―――なんて思ってると。
「かなたぁああああああああ!」
ぁあああああ、とエコーのかかる勢いで叫びつつこちらに突進してくる緋那。
「緋那?」
「あれが…」
がしっと抱きついてきた彼女の唇から洩れるのは、小さな呟き。
「あれが出たぁ…」
『あれが、あれが、あれが…』と小さく呟く彼女の肩は小刻みに震えている。
彼女がここまで怯えるものなんてひとつ。それは―――
「…あれって。ゴキ―――」
「言うなぁあああああああ!」
「がはっ」
体に回された手に力が籠る。どこかの骨のきしむ音を聞く幻覚。
私とさして変わらぬ年齢の少女に見えても、緋那は龍なのだ。本気で抱きつかれれば、当然、その、言葉にできない感じです。ていうか、混乱で肉体のリミッターが外れてるんじゃないかって強さです。種族関係ないんじゃないでしょうか。
「ひ……な……っ」
ドラゴンに抱きつかれて粉砕した骨が内臓に刺さって死にましたって事故として扱ってもらえるだろうか―――あまりの痛みに、そんな不吉な言葉が脳裏をよぎる。
「私としたことが迂闊だったまさか奴が台所に侵入するなんて思ってもみなかった畜生どこから!どこから現れたんだあの黒い悪魔の使者ぁあああああ!」
「ひ…な……やば、マジやば……」
助けを請うための声は、絶叫する彼女には届かない。それどころか、ますます強くなってる気が…
…いや、これでも…一番初めにゴキブリを見つけた時よりかはマシだ…けど…その…死にそうです…
「…緋那?」
救いをもたらす声は、ついさっき降りてきた階段から聞こえた。
「磨智ぃ…」
「どうしたの? マスターぐったりしてるんだけど…」
磨智の戸惑ったような声に、涙声で答える緋那。
良いぞもっと言え磨智…泣きたいのはこっちだ…!
「だってあれが! あれが出たらかなたが下りてきてあれがいるから! あれが!」
いつもの彼女からは考えられないような支離滅裂な台詞に、磨智が「ああ」と呟く声は、薄れゆく意識でもとらえられた。…っていうか、本当、目の前が白くなって来たんだけど…
「分かった。つぶしてあげるから、マスター離しなよ…。顔色やばいよ?」
「え?」
小さな呟きの後、ハッと息をのむ声が聞こえる。
慌てて腰に回された手が離れた。
けど、今の私に自力で立ち上がれる力はない。
床にズルズルと倒れ込むと、心底気遣わしげな顔をした緋那が何度も謝罪してくる。
「…だい、じょう、ぶだ…よ…」
言いながらも、意識が薄れていく。
最後に聞こえたのは、緋那の焦りまくった声だった。
「…すまない。つい気が動転して」
しばし意識を失ったらしい私が目覚めたのは、自室のベッドの上だった。
「そう…」
謝罪と共に差し出された甘いお茶を受け取れば、自然と苦笑が漏れた。
緋那は『あれ』が苦手だ。いつものクールっぷりがどこかへ吹っ飛ぶ勢いで大嫌いだ。
初めて『あれ』を目にした時は、混乱のあまり家を焼きはらおうとすらした。
あの頃はまだ、メーと私と緋那とで3人しかいなくて…彼女を落ち着かせるのに難儀したのは、笑うしかない種類の思い出だ。…いや、訂正。あんまり思いだしたくない思い出だな。
そういえば、あの次の日からだったな…。不潔だからあんなもんがわくんだって言って、緋那がそれまで以上に掃除の鬼になったのは…
遠い目で改装にふける私に、あの日と同じ真剣な目の緋那は言った。
「これからは、気をつける。決して奴が入れない家にしよう」
「気をつけるってそっち!?」
思わず非難めいた声を上げると、キッと睨まれた。
「嫌いなもんは嫌いだ。しかたないだろう」
「そうだけど…」
「…あのがさがさとした音も気色悪いフィルムも…ともかく、あのすべてが悪寒を誘う。
克服する意義は感じない」
「いや。克服はしなくてもいいけどさあ…もっと落ち着いた対応してくれないと…近くにいた人が危ない」
「…原因がいなければ、ああはならない」
「けどさぁ…」
けど、完璧にいなくなるなんて無理なんじゃないだろうか。だって、今だって水回りは十分に綺麗だ。
その度にこんな目に遭うのは…嫌だ。
だからだろう。つい、からかうように訊いてしまった。
「あの時近くにいたのがベムならどうしたのさ」
「……………」
緋那は露骨に顔をひきつらせて黙り込む。
「抱きつくの? あの様子じゃそうしただろうね。
―――そうしたら、後で後悔したんじゃないの?」
ベムもやばそうだよなあ。幸せ慣れしてないし。なんて胸の中で続けながら答えを待つ。
緋那は心底困ったような顔をして―――ぽつりと呟いた。
「…抱きつくだろうな」
「え?」
そんなことするか! とか怒鳴られるつもりでいたので、つい目を瞠った。
「あいつは一晩中抱きついていてもなにもしなかったから」
「――――――えぇええ!?」
小声で続けられた衝撃の真実に思わず声を上げる。
それに驚いたように肩を震わせる緋那。
そして、罰の悪そうな顔をして立ち上がる。
「ともかく。これからもあれが出ないように気をつければいいだけだ。
お前には悪いことをしたが、そこは譲らない」
「ちょ、待って緋」
「じゃあそれ飲んだら降りて来い。適当に菓子準備してるから」
バタン、と彼女らしかねる乱暴さで扉が閉められる。
抱きつくって。一晩中って。いつのまに。いつのまにそんな関係に…!?
「いや、喜ばしいんだけどさぁ…」
呟いた声に滲んだ感情は、自分でもよく分からない。悲しみとか苦しみとかそういうのじゃなくて…驚き…とまどいという奴だろうか。
…春って、連鎖的に来るものなのかな…
「そういえばよく出産ラッシュに見舞われている家とかあるよな…。家に限ってそりゃないなと思ってたけど…」
そんなこと、言いきれないのか。
小さく呟いた声は、やがて乾いた苦笑に変わった。