『ふぅん。じゃあ来週こっちにはこれないんだね。そっか。気を付けてね。旅行』
「別に私は運転しないし、船だから…気を付けようがない気もするけど。…まあ、気をつけるわ」
『運転以外にも旅行は色々と危ないことがいっぱいじゃないのかなぁ』
 いや、今あなたが私を誘った『おじーちゃんの合宿』ほどじゃないよ。
 私には稽古つけないと言ってるとかいうけど。あの祖父に限ってそれはないだろう。ない。ないんだってば。
 この年下の従妹は、そんな祖父を大層慕っているのでそれが苦ではないようだが。というか、師範になったんだっけか。どうだっただろう。
「たかが旅行にそんなにしょげた声出さないでもいいでしょ?」
『…、…あ、うん。そう、だね』
 一拍おかしな間があった気がするけれど、気にしない。
 気にしない、というか。少し疲れた声をしていると思う。
 …この子、色々とあったらしいからな。よく聞いてはないけど。入院したり、なんか突然子供引き取ったり。養子ではないと聞いたけれども。あの放任主義の叔父夫婦がさすがにもめにもめたらしいし。うちにも少し愚痴に電話が来ていたそうだ。やっぱりそれも、詳しく聞いてはいないけど。
 詳しく知らないから、聞いてみたい気がするけど―――…疲れていそうだから、根ほり葉ほり聞くのもな。親戚を傷つけるほど、好奇心の奴隷になった覚えはない。
『…倫花ちゃん』
「うん? なに?」
『…島。なんだよね。…ほら。飲み物たくさん持っていった方がいいよ。タオルとか。気持ち悪くなる人、絶対いるし』
「…慧香ちゃん。そういうの好きね…」
『備えあればいいことあるんだよ? 大体倫花ちゃん、ものすごく体力ないのに…誘う人は気が利かない。もっと体力なくても安心な旅行でいいじゃない』
 体力がないのに安心な旅行ってなんだろう。
 完全に車移動とかでも疲れると思うけど。なんというか、過保護な意見だ。笑ってしまう。変わっていないな、と。
「でも、久々に会う人ばかりだから。まさか再会してすぐ旅行に誘われると思わなかったけど。誘ってもらえて、すごくうれしいよ」
『…そうなんだ』
 なら、良かったね。
 ほっとしたように言う声に、やはり笑ってしまった。


 ピピ、とアラームが鳴る。
 ぐるりと視線を動かすと、カーテンから漏れる光が目を刺す。…朝だ。
「……」
 半身を起こすと、視界の端にありえぬ幻を見えた。
 ぐ、ときつく瞼を閉じて。もう一度明ける。
 幻は消える。
 あの島で見た、恐ろしいモノはそこにはいない。
 もういない。
 …もういないことを、頭ではわかっている。
 はあ、と息をつく。痛む額に触れた手は冷たい。死体みたいに。ああ、違う。死体は。もっと冷たい。残っていた体温が、覆いかぶさっている間にじわじわと消えていく。冷たくなっていく。うごかない。
「………」
 ベッドから降りて、朝食の用意に向かう。
 といっても、食欲はない。もう食べなくてもいいかな、と思う。一日くらいは。
 ああ、でも。最近食欲、あんまりないしな。無理にでも食べなきゃ危ないかな。形だけでも規則正しくなっておくべきだ。今日は依頼人との打ち合わせもないから、自分でその辺りを制御していかないと。際限なく落ちていく。
 でもなぁ……
 別に一人で食べるご飯に抵抗なんてないけれど。ふと、少しだけ寂しい。
 最近、会ってないなあ。と。
 会わせる顔がなくて、会えていないなぁ、と。
 前、たまに会ってご飯を食べていた数少ない友人とは喧嘩…とも言えぬような、なにかをしてあっていない。
 他も、1人は多忙な自衛官だし。1人は―――…興梠君は。
 お礼を言われたくなんてなかった。
 けれど恨んでいるといわれるのも怖かった。
 きっと、彼に何を言われても痛い。…それがなくても、わざわざ誘うほど仲がいい相手では、ないし。
 学生時代だって、仲なんてよかったわけでもないのにな。
 彼にとってはクラスメイトその1だっただろうに。
 それなのに、誘ってくれたのが嬉しかった。
 だって、私は。
 だって、私の方は、少し、憧れていたところがあったから。
 友情というほど親しくはなかった。恋というほど強くはない。ただ、淡くて。あったかい。思い出みたいな――――だから、嬉しかった。
 でも、今はそのすべてが、心を冷たくする。

 適当なコップに入れた牛乳は、いつのまにかフチからはみ出て手を濡らす。
 ああ、きちんと始末しておかないと。後が怖い。
 牛乳って、匂いが強いからなあ。なんか栄養ありそうで、朝は飲むようにしているけれど。
 なんか、最近。それすら面倒くさいような。…ああ。ダメだ。だからこれは、ダメだ。
 布巾で牛乳を拭って、それを洗う間にパンを焼く。
 こんがりとパンが焼けるその匂いは、いつもと同じだ。あの島に行くまでと同じだ。
 皿にのせて、かみしめる味も同じだ。
 目に見える光景も同じだ。少し異物が―――幻がちらつくことがあるけれど。おんなじ。
 そう、同じだ。
 何も変わっていない、私は。
 あの島に行く前も、帰ってきてからも。別に。
 ただ、今。少しだけ寂しくて――そのうち、それも気にならなくなるのだろう。
 思えば昔から、私はこんな感じだ。
 人と摩擦を起こすのは面倒だし、できれば朗らかでいるのを見ている方がうれしい。だから色々と頼まれる。
 そのうちそれも面倒になるから、適当に距離をとる。
 ハメをはずさず、適度に。適当に。それでずっとやってきた。
 だから、気が付くと。なんとなく、いつも寂しい。
 だから、今回も。少し経緯は違うけど、絶対なれるはずで―――なのに、なんでこんなにひっかかるのだろう。
 …嬉しかったからかな。
 十年覚えてくれて、嬉しかったからかな。
 いきなり泊まろうなんて誘ったのに来てくれて、嬉しかったからかな。
 ああ。そうだとしても。
 こちらから連絡を取って、積極的に会う勇気は。まだ持てそうにない。
 食べ終えた食器を洗う水の温度が、やたらと冷たい。
 ああ、もう秋なのだと、そうして気付いた。

 力…ライオンを抑える女性として描かれることが多い。大きな力・本能を制御しようとする女性。意思と知恵。勇気と理性の象徴。反転すれば甘えと無気力・優柔不断。
 完璧に逆位置の解釈を背負う女ですがどうにか立ち直ってもう少し意思を持ってほしいものです。特別な存在にはなれない。人の本性や意思に直面する人。
 たぶん本来は快活な人だよ。少し適当に生きてたツケがまわってきたけれども。
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