審判
母が死んだ。
枯れ木のようにあせた腕を組み、すう、と息を止めた。
否。その瞬間を見てはいない。
おそらくはそうして静かに息を止めたのだろうと、眠る姿から想像する。
母。俺を生んだ女。
商家である家に尽くした女だった。父との仲は、おそらくは平均よりは睦まじかったのであろう。いつもせわしく動き回っていたが、飯が終わった父は必ず母を呼んだ。お前、なあ。お前。酌をしろ、。と。言葉の割に柔らかい声で、いつも呼ばい。本当に一杯だけ酌をさせて、それをなめるようにゆっくりと飲む。その間、ずっと母は父の隣にいた。隣にいただけだった。その間、母を呼ぶことは誰にも許されなかった。兄でさえ。
さて。俺は。
俺は、母に育てられたという実感はない。幼少期は住み込みの従業員がいたし、その中の女性は俺の相手をしてくれた。兄はなにやらキチンとした男に囲まれ、あれやこれやと勉学を詰め込まれていたが。俺は手のすいた女に抱かれて育ち、手のすいた男が遊んでくれた。
字は、父が教えてくれた。今思えば貴重な蔵書だっただろうが、父と祖父は書斎に入ることを止めなかった。
母には、なにをされた覚えもない。
抱かれた覚えも、撫でられた覚えもない。兄のように、重んじられたこともない。目が合った記憶さえおぼろだ。母が倒れるまでは。
けれど、母は。
俺の育った家は、小奇麗に整い、すべてが母がこしらえたというわけではないが、飯は常に美味だった。薄い布団は、それでもたまに太陽の匂いがした。俺が干すよりも早く、だ。
そのように家を維持してくれたのは、それを指揮していたのは母だ。
俺を作るすべては、母の尽力と切り離せない。
だから、母が病に―――騙されて財の大部分を失い、それに対応するために無理を重ねた結果として床につき、俺を呼んだ時、グッと胸がつまった。
その人はしゃんと伸びてた背中を丸めて、細すぎる腕を伸ばして俺を撫でた。
次彦、とかすれた声で名を呼ばれた。
…名を呼ばれたことすら、珍しかった。
恨んではいけませんよ。
細い声で、母は言った。
旦那様を。旦那様をだました人を。恨んではいけません。
あなたにそんな暇はありません。
あなたのお兄様をよく支えなさい。
細い痩せた声は、じんわりと体にしみこみ。ひどく胸をきしませる。
次彦。
最後のように、母はそう呼んだ。
旦那様の……わたしの、可愛い子。明るいところに行きなさい。
俺を呼んで、そう願う声を聴いたのが、母と話した最後。
握りしめた指はどこまでも細く、ただただやるせなかった。
同時に、誇らしくもあった。
母がなによりも大事にしたものを託す―――支える相手として俺を選んだことが。この上なく。誇らしくもあったのだ。
けれど、お母さん。
だからこそ、俺は―――
俺は、許すことなどできません。
「…お前は馬鹿だな」
「はあ、兄さんに比べれば。そりゃあ俺は不詳の阿呆でしょう」
「確かにお前は使えないが。使えない割に、使い道がある。―――お前がその下らぬ野望を捨てるなら、俺が適当に始末をつけるぞ」
「俺の始末、というと。この間の縁談でしょうか。俺にはすぎたものでしたね。…お父さんは人に騙されましたが、色々と手を差し伸べる人でもありますから。情けは人のためならず、というやつでしょうか。……なんにせよ、兄さんは断ったでしょう」
「お前、帝都に行く手はずを整えているだろう」
正座で向き合った兄は、けだるそうにつぶやく。
呆れているのかもしれないし、事実けだるいのかもしれない。身体の強い人ではない。母よりはマシだが。それはただ母よりは若く、体力があるだけでもあるのだろう。
「…探すのだろう?」
「…はい」
「もう、2年経っている。難しい、で済む話ではないぞ」
「兄さん。…勝手を承知で、申し上げます」
「ああ」
「憎くはありませんか」
「憎い」
「無念ではありませんか」
「無念だとも。屈辱だ。お前よりもよほどな。―――だが、それでは腹が膨れん」
「ええ、飯を詰める臓腑が潰れる思いです」
「…馬鹿だな。お前は」
「ええ。兄さん。兄さん。―――馬鹿な俺にできることです。あなたと、父と。我が家に手を差し伸べてくれたもの達の憎しみを、憤りを、屈辱を。すべて、持っていこうと思います」
「……そのようなことされずとも、私は平気だが」
「お父さんは?」
「それが理由か、結局は」
すう、と兄の目が細くなる。
兄はすでに父を見切っている。既にこの家は兄のものであるからだ。
けれど兄は、やや呆うけたように過ごす父を放逐はしない。
父に飯をやるよりならば、身重の妻に飯を与える方が合理的と考えるだろうに、この方は。
それも情だ。結局は。
形が違うだけで、兄もまた父を、母を重んじている。
きっとその形は、俺よりも正しい。当たり前だ。兄は常に、俺より強く、正しい。俺がこの方に勝っている部分など、上背と腕力と、素早さだ。
剣を取り、あの詐欺師の首をはねるに足る、この腕だけだ。
「兄さん」
「良い。分かった。好きに生きろ」
「兄さん」
「だが仇討ちは所詮殺人だ。事が露見し、お前が命を落とすことになっても俺は―――我が家は関与しない」
「もとより、そのつもりです。…ですが。兄さん」
「ああ」
「それを成すまでは、送れるものは送らせていただきます。帝都で、探偵を営む気でいますので」
「つもりですますな。算段をつけていけ。…お前は本当に、愚かな弟だ」
「弟で、良いのですか」
「あの程度の詐欺師が死んだところで、すぐさまことが露見することはなかろうよ。お前がそれを殺す日―――いや、それが法の下にさらされるまでは、お前は弟だ」
「……感謝いたします」
「……だが止めぬのだから、つくづく愚かだ」
「ええ。…ええ。兄の力になれぬ愚弟で、申し訳ない」
深く、頭を下げる。
ボロボロの板間の乾いた感覚が、鼻先を濡らす。
「次彦」
顔を上げろと命ずるような声に、ゆるりと頭を上げ、姿勢を正す。
兄の目は静かだ。
常に静かだ。母の死に涙をとめられぬ俺に、彼はずっと乾いた目を送っていた。
「…いきなさい」
いつになく固い声は、「生きなさい」であり「行きなさい」ではない。
それが分かる程度の分別はあったが、俺はやはり頭を下げた。
深く、深く。
愚かに恨みのすべてを持っていくことが、兄の―――家の幸いであると、そう信じて。
ただの俺の望みをそう挿げ替えて、そっと立ち上がった。
審判…三ツ木次彦。あるいは、三ツ木家。悔恨、行き詰まり、再起不能――をばねに、復活と改善、新たに生まれ変わることを目指した者。
探偵三ツ木の実家は元々それなりの商家でした。父親の誠実さと実直さが売りでした。けれどそれがだまし、漬け込まれる結果となり、信用も失っていたので。子供は苦労をしたというか、父は兄弟に関しては親戚の元へ逃がそうとしたのですが。二人ともそれぞれの形で家に残ったとさ。
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