明るい月の下で、影がのんびりと伸びている。
 都会の街頭の元でも、月が明るい夜というのは格別に明るい。それは、私がさみしい場所―――もっというなら、安い場所に居を構えているせいでもある。
 …私はともかく、この子のいるべき場所ではない。
 傍らの影の持ち主。小さな女の子。キラキラとした目で月を眺める女の子。私の希望。生きていてくれた女の子。私の―――……いとしい、と呼んでいいのだろうか。こういう気持ちは。
 分からない。何もわからない。
 つい先ほど。つい先ほどだ。おそらくつないでほしくて伸ばされたのであろう手を振り払ってしまった私には、そんなもの。
 寄り添うことは、恐ろしくて仕方ない。
 かつてこの子に触れたのは、そうしないとこの子が死んでしまうのだと怯えたからだ。
 もう、見たくなかった。
 愛されるべきものが血の海に、あるいはもっとおぞましいものに沈むところを。見たくない。
 だから、この子を連れだした。この子と出会った、あの絶望の中から。

 けれど、日常に帰ってしまえば。分からないのだ。
 私の日常の中で、誰かに手をひいてもらった記憶などない。あったのかもしれないが、残ってはいない。
 手を伸ばされた時は、殴られる時だ。
 引き寄せられるのは、突き飛ばされる時だ。
 父が口を開いたときは、罵倒が、嘲笑が飛んでくる時だ。

 だから、分からない。優しい日々をどうやって歩けばいいのか。本で読んだ絵空事をなぞることしかできない。
「史美さん」
「…はい。なあに?」
 子供はキラキラした目でこちらを見やってくる。
 この子と出会った時に会ったとあるジャーナリストが言うに、その瞳にあるのは憧憬らしい。
 ……つり橋効果だ。そんなもの。
「手を、つないでもいいですか? 嫌ならいいですけど」
 史美さん。荷物を持っていますし。と。
 キラキラした笑顔で、つい先ほど手を払った女に、そんなことを言ってくる。
 愛されていた子供だ。
 不幸にも、その愛が―――…彼女の両親は奪われたものの。
 愛されていた子供なのだ。そして今もなお、両親以外が彼女を愛している。
 ああ。眩しい。、目が潰れそうだ。
 ―――正常を拾うための目などもう、つぶれているのだ。私は。
「嫌じゃありませんよ。ただ、びっくりしてしまっただけ」
 それでも、今度は差し出された手をとれた。
   これは私を害する手ではない。
 そう認識している今は、触れることができる。
「びっくり、ですか?」
「ええ。私は…臆病なのでしょう」
「そんなこと…ないですよ。私を助けてくれました…」
「…偶然ですよ」
「でも、助けようと。色々と気をつけてくれました!」
 キラキラした目は曇らない。
 きっとこの子は曇らない。
 それは持つものの幸福だ。富める者の特権だ。
 どうか、そのまま。
 そのまま生きていってほしい。
 あなたは生存を望まれた命。
 私が、そして。あの時居合わせた一同が。なによりも、あなたを生み落とし、慈しんだ両親が。幸福を望んだ命だ。
 ああ。胸が苦しい。
 耳鳴りがする。
 キラキラ眩しい、太陽みたいに。直視すれば目が痛む、暴力的な光のように。
「……そうですね。あなたを助けられたことは、私の希望ですから」
 くらくら、グラグラ視界が揺れる。
 隣の小さな姿がぶれる。
 生ぬるい苦しみではなく、胸を突かれる絶望を知ったあの日のように。
 違う。違う。違う。
 胸が突かれたのは、私ではない。
 私が斬った。
 助けると約束した命を。
 私が斬った。地に伏せた。
 たくさんの人に、生きることを望まれた。かけがえのない、夢のようにキレイな命。
 斬って斬って、弱らせて。止めをさせずにいると、その命は言って。ごめんなさいと言って。
 共にいた同僚が、胸を突き眠らせた。
 赤い。赤い。血で濡れて、そこには泥ができ。湿って、まじりあって。何も聞こえなくなっていき。ああ。違う。耳に残る。
 その人に生きて欲しいと願った声が。
 それを尊いと信じた、私の声が。
 だから。違うの。違う。やめて。どうか。
 生きるべきはそちらだ。
 あなたは死ななくていい。
 私は―――キレイなその命を、守りたかったのに。
 ぐ、と瞼を閉じる。
 少し乱れた息を整え、軽くかぶりを振る。
 幻覚は止まる。
 傍らにいるのは、血にまみれてなどいない。大切な少女だ。
 あの日殺めたあの人ではない。
「…帰りましょう」
「はい!」
 つきまとう幻覚をやりすごし、キレイな生き物の手をひいていく。
 笑えるように努めて、やわらかな声色を心がけ。
 この子を傷つけぬことだけを願い、帰っていく。
 今帰るのは、寂しい我が家。
 けれど、この愛しい命を。
 いつかあるべき場所に返して、ようやく息をつくのだろう。

 あの家にいるかぎり、そこはこの子にとってのつり橋だ。
 私の日常は、この子の非日常であるべきなのだ。
 だって、あそこは。終の住処。
 望まれぬ命であることに臨む、私の牢獄。

 キラキラ。人工の電灯が道を照らして、彼女の目も輝かせる。
 空からぼんやりと落ちる月の光は、さて。なにを呼ぶのだったか。

 太陽はこの目に眩しすぎる。
 狂気を呼ぶとレッテルを張られた光の下では、穏やかな息ができる。

 月…不安定・トラウマなどの象徴。逆位置ならばそれらからの解放。…されど彼女には訪れない。
 人生元から崖っぷち気味だったのにとあるシナリオでNPCを殺したことで自らの情緒というか。積極性を殺した女峰松史美。一時一緒に暮らした女の子と共に。
 幼少期由来の色んなトラウマに苦しむ彼女ですが、きっと終わる時はこの子を思い出すのでしょう。
 ままごとのような日々の幸せを抱いて、穏やかに息をひきとるのでしょう。その人生が、半ば以上狂気のうちにあったとしても。
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