『…こんな時にまで姉ぶるんじゃないわよ、馬鹿』
 弱っているはずなのに、のらりくらりと。
 弱っているくせに、こちらの心配ばかり。
 あまりに腹立たしかったので、そういった。
 すると姉はこちらの問いに答えぬまま、穏やかに、いつもみたいに笑った。
『どんな状況でも、私はあなたの姉でしょう…?
 …ともかく、帰りなさい』
 思い出すとまた腹が立つ。本当にいつもと変りなく―――違う。
 同じなものか。あんな顔。
 あんな―――死体と見間違うような、光のない瞳で。
 今にも消えてしまいそうな空気をまきちらして。口元だけで笑った。
 あんな嫌な顔をする人ではなかった。
 あんな―――あんな。
 思い出すとゾクリと背中が冷える。
 原因不明の病魔…と言っていいかもわからないもので、入院しているのだという。
 けれど体は随分と快方に向かっている…はずなのに。
「……」
 ち、と舌打ちが漏れる。煙草を取り出そうとして、まだ病院内だと気付く。
 そう、姉の態度に腹が立って病室を後にしたが、まだ。病院だ。
 身体は回復している。ならば心の問題だろう。否、心も身体だ。脳から分泌される物質の結果生まれるものが心。つまり霊的なものであるかのように語られるそれもまた、身体である。
 少なくとも、医者である私にとってはそういうものだ。
 姉にとっても―――同じだと、思うのだけれど。
 あのお人よしは馬鹿みたいにお人よしで、ともかく馬鹿だ。私とは似ていない。けれど、その辺りの意識は共通している。…共通していると、知っているのだけれども。
 ゾクリ、と再び背筋が冷たくなる。
 姉は…今病室で休んでいる姉は。果たして私が知っているままの姉なのだろうか。
 ……いや。
 もしも今までと変質していたとしても、アレは姉だ。
 ならば、対話を持とう。
 今はまだ、長い時間話しているのも望ましくない体力なのだと聞いた。
 そんな状況でなにをしても、効率が良いとは言えない。悪化したら笑えない。
 だから、まず回復してもらわないと。そうして、時間を作って。また会いにこよう。
 姉と話しているとイライラする。今の状況はなおさらだ。イライラするから、納得するまで。元気になったら、なじってやろう。
 思い、病院を後にする。
 高い位置にある窓を見ても、姉と目が合うなんてことはない。
 けれど、あの馬鹿が寝ているはずの場所を目に焼き付けて、そこを後にした。

 ―――それが―――
 少し前の話なのに。数か月前の話なのに。
「………」
 私の目の前には姉がいる。
 明日には火葬場で焼ける姉だ。
 実家で最後の夜を過ごす遺体だ。
 穏やかに笑って、綺麗に化粧をされて横たわっている。それでも分かる。分かってしまう。むごい死に方だっただろう。
 折れた骨を接ぎ合わせて、綺麗に死化粧しているのだから。どれだけ濃い化粧か、触れて探れば分かってしまう。それが私の仕事だ。遺体を開き、残された情報を読み込んで。同じ病気がないように。同じ事故が起こらぬように。闇に葬られる事件がないように。そうして最後の声を聞くのが、私の仕事。
 ああ、でも。これではなにも分からない。
 隅から隅まで調べたけれど、不可思議な死だったのだという。
 死因そのものはシンプルだけれど、自室でそれが起こる理由が分からなかったという。
 誰にも―――なんでこの人が死んだのかが分からなかった。
「………」
 姉さん、と呼ぼうとした声が喉で潰れる。
 身体が震えて、口の中に広がるのは血の味。
 強く噛みすぎた歯が、少しどこかを傷つけた。
「……なにか、喋りなさいよ」
 喋らない。
 喋るはずがない。
「ね…え、さん」
 力を失った手を握る。
 握り返してくれるはずがない。
「………おねぇ」
 幼い頃の呼び方がこぼれる。
 それを揶揄する声はない。
「…………」
 返る静寂が辛くて、投げようとした言葉のすべてが消える。
 ああ、そうだ。辛い。悲しい。嫌だ。行かないで。姉さん。
 あんな悲しい顔を最後にして、一人でいってしまわないで。
「…どうして…?」
 なんで、どうして。ねえ、姉さん。
 なんでいきなり、こんな。なんで―――あんなわけのわからない日記を遺して、こんなことに。
「…どうして…」
 なんで。あの時。帰ってしまったのだろう。
 諦めたのは―――姉ではなく、私?
 話しても分からないといわんばかりの態度に腹が立った。だからそのまま出てきて―――時間に頼った、私こそが。
 あなたを救うのを、諦めた?
 姉の部屋に遺された日記を思い出す。不審死ゆえに部屋を調べた警察が、泣き崩れる両親の代わりに私にくれたもの。
 狂気と悔恨にまみれた、あの日記を。
 救いも、自分の人生も、なにもかもいらないと。そう訴えんばかりに書き綴られた文字の数々。
 両親の目に届く前に、私が焼いた。あんなものいらない。…私だけが覚えていれば、いい。
 そう、姉が救われるべきものだった、と。
 もう自力ではどうしよもに場所に沈んでいたであろうことなど。
 私だけが知っていて…真相を追えばいい。
「…でも」
 そんなものを知っても、この人は、もう二度と。
「…けど」
 せめてそのくらいしらなければ、私はどこにもいけないの。
「…ねえさん…」
 いつも他人の世話ばかり焼いてた馬鹿な人。こちらを頼らなかった勝手な人。わけのわからないものに追い詰められてた、弱い人。
 どうして頼ってくれなかったの。あの時話してくれなかったの。ねえ。
「私は―――…あなたを、許さない……」
 ねえ、だって。
 今まで気づかなかったけれど。当たり前だから、気づく必要なんてないはずだったけれど。
 こんなにも泣けてしまうくらい、あなたのことが大切だったようなのよ。

 塔…正位置でも逆位置でもよい意味がないカード。塔から落ちる人は二人。象徴するのは悲劇や突然のアクシデント。無念や屈辱。そして、戦意の喪失。
 妹が姉の死の原因の一端をするのは、これからしばらくたった後。けれどそれが姉自身が望み、諦めた結果だと知る日は来ません。
 突然の不幸に見舞われた二人の救いはきっとそこでしょう。あるいは、そんなものがなくとも。愛し愛された記憶で幸せな姉妹でもありますけどね。妹、現在はここまで引きずっていないから。
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