悪魔

 動かすのがだるい腕を伸ばして、隣に横たわる恋人の腹に触れる。
 それを支点にころりと寝返り打てば、ふんわりと腕が背中に回る。少し汗ばんだ、けれど冷たい腕だ。
 腕を持ち上げ、ひんやりとした胸元に手を這わせて。なんとなく息をつく。
 安堵ではない。感嘆でもない。しいて言うなら、不安の発露。
 侑里はくすぐったがるように身をよじる。…ように、じゃなくて。きっとくすぐったいのだろう。
「…なに?」
「侑里は冷たいな、と思ってた」
「え…? 君に冷たくしたことはないと思うよ?」
 困ったように、なだめるように手を重ねられる。
 甘やかすような仕草がひどく様になる、穏やかな人。
 余裕があるともいえる。
 その様にイライラしたのは、出会った直後。
 ああ、そう。腹が立った。焦燥を抱いたといってもいい。兄が頼る人など、あんなにも心を許すところをはじめてみたから。きっと思ったのだ。「とられる」と。
 …そもそも。兄が私のものだったことなんて、ないけど。
「確かに、あなたが冷たかったことなんてない…」
 ぽすん、と胸元に頭を押し付けてグリグリと懐いてみる。
 くすぐったいな、と訴える声はやはり穏やかだ。優しい。出会った頃から、侑里は優しい。
「そうじゃなくて。物理的に。冷たい」
「…そう?」
「そう」
「自分ではよくわからないな」
「冷凍マグロ男…」
「…この状況でその表現はどうかなと思うよ、璃奈子」
 わざとだという思いをこめて、さらに頭を押し付ける。
 いよいよ困ったようなため息をあたまの上で感じながら、ぼんやりと思い返す。
 この男は最初から優しかった。今も優しい。どこまでも優しい。とろけるようだ。
 兄にも優しいのだろうか。だから兄も彼と一緒にいるのだろうか。
 私の親友にも優しい。誰にでも優しいのだ、侑里は。
 ……私は。
 恋した人と一緒にいるのに、どうして自然とあの二人のことを考えてしまうのだろう。今も。
「…俺は平熱は平均的だと思うよ」
「でも、冷たい」
「君が熱いんだよ」
 そんなこと、言われるまでもなく分かってる。
 恋してのぼせて、きっと頬とかそこかしらが熱い。
 私だって、平熱は平均的なはずだ。むしろ冷え性で親友に心配される。ハンドクリームとかを分けてくれる。あの子は優しい。兄になにかを言われたことはない。そういう人だ。兄は。
「……侑里、やらしい」
「…ねえ、君。反応に困るとすぐそういうこと言うよね…」
「本当のことだもの」
「いや、まあ。…うん。そうだね」
 言いたいことがあるならきちんといえばいいのに。
 そういう態度が『いやらしい』のだ。
 …そういうところが好きなのだろうけれど。
「…侑里は冷たい」
「うん」
「…………照れ、ないの?」
 そういう、つかみどころがない―――ふわふわと甘いこの男が好きだ。
 けれど、たまには照れてほしい。
 うろたえてほしい。
 ……好きだと、示してほしい。
「しあわせなことをしているだけだから、照れない」
 それなのに、返ってくるのは明らかにこちらを照れさせるための言葉だ。
 照れさせる。否。喜ばせる言葉だ。
 頭を撫でるは優しくて、他愛ない言葉を紡ぐ声は甘い。
 …でも、なぜだろう。
 足りない、と声がするのは。
 もっと、もっと。
 もっと―――好きだと言ってほしいと。そう思うのは。
 くらくらと眩暈がする。
 常のままとしか思えない胸元に押し付けた自分の額は、やけに熱い。
 ああ、視界がグラグラと揺れる。
「侑里」
「うん。…眠いの?」
「ううん…」
「…眠そうだけどね」
 むき出しのままの肩に、優しく布団をかけられる。
 ポンポンと背中を撫でるリズムは、明らかにこちらを寝かせる意図がある。
 確かに、このまま眠ってしまえば楽だろう。
 …案外、それが私の望みなのかもしれない。
 足りない、もっと。と。そうダダをこねる私の望みなのかもしれない。
 このまま、ぐずぐずに溶けて行ってしまいたい。
 この腕の中だけが世界ならいい。
 そう思い瞼を閉じて―――ああ、違うと思う。
 瞼裏に浮かぶ、幼い風景。綺麗なお星さまと、それに目を輝かせる親友と、ぽつぽつと解説する兄。
 私にはそこまでと思えない光景を綺麗だと見惚れる、大切な二人。
 この腕ではない、欲しい世界は。
 私は―――私が欲しがっているのは。元はずっと親友といれる世界で。同時に、兄とも一緒に入れる世界。
 けれど、あの二人はやがて。幼い世界を捨てていくから。
 …だから、だから。
 私は、別のものが欲しくて。この男が欲しくて。……ああ。
「…璃奈子」
「……ん」
 欲しくて手に入れた。
 傍にいてくれる、欲しい言葉をくれるこの男に。
 なにが足りないと思っているのだろうか。
 私が欲しいのは、この人の混乱?  ……もしくは、本当は。
 本当に欲しいのは、今も。あの二人のままかしら。
「見ててあげるから、おやすみ」
 ああ、だとしたら、そんなものは無理だから。
 今一番欲しい言葉をくれる腕の持ち主。その背中をぎゅうと腕で抱きしめた。

 悪魔…正位置ならば裏切り、拘束、堕落、束縛、誘惑。逆位置ならば回復、覚醒、新たな出会い、リセット、生真面目。きっと彼女は逆位置のようなことを彼に感じていたのだろうけれども。結果はあの通りだという話。誘惑の象徴であり、訳の分からなさも示すカードでもある辺り、すごくあの三人みを感じます。
 侑里さんと璃奈子さんのイメージはそこはかとなくエロイけれども「おままごとのような恋」です(定期)ふわふわと穏やかな恋人ごっこ。いや。恋人だったわけですけどね!
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