死神

 夕暮れ時が好きだった。
 夕暮れ時、並んで歩く時間が好きだった。
 隣を歩く彼女が笑う。
 記憶の中の彼女は、大抵笑っている。
 よく笑う女だった。
 よくしょげる女でもあったと思う。
 抜けている、というか。人の苛立ちを煽るタチでもあった。
 だからやんわりと迫害され、それでもやんわりと笑っていて。それが一層苛立ちを煽る。そういう女だった。
 当時は、ただ。要領が悪いなと思っていた。
 もっとうまく立ち回ればよいものだと思っていた。
 そんなことを思いながら、彼女の徒然とした話を聞いていた。
 隣の学校のその子の、他愛ない話を聞いていた。
 大抵はどうでもいい話で。俺も似たような日々をすごしているはずなのに。とても新鮮に聞こえた。カリカリと鉛筆を走らせ、つたない絵を描いて見せるのを見るのも楽しかった。
 見ている世界が違ったのだろう。きっと。
 彼女の目線で見る世界は、きっととても瑞々しく美しい。そういうことだっただろう。
 ことさら鮮やかに、嬉し気に語るのは、彼女の『好きな相手』とやらの話だった。
 ただえさえしまりのない顔をとろけさせて、幸せそうに。
 ―――その顔を見る度、とても落ち着かない気持ちになった。
 あまりに馬鹿のようだったから、苛立ってたのだと思っていたのだけれど。
 …それは正確で。間違いだったのだろう。
 俺は苛立っていた。
 その愚かさではなく、その感情がこちらに向かないことに。
 苛立って、嫉妬していたのだろう。
 当時は、気づけはしなかったけれど。

 夕暮れ時が好きだった。
 穏やかに、たまに苛立って。彼女と歩く、あの時間が。
 あのブレーキ音が響く瞬間まで、とても。好きだった。

 何が好きで何が嫌いで何が好ましく何が疎ましいのか―――……
 よく分からない、生きているかもよく分からないこの身に、唯一鮮やかな好意だったのだ。
 だから、彼女が死んでから。引き潰され、物言わぬ屍となってから。
 本格的に何もわからなかったし、なにをする気にもならなかった。
 なにを―――……あとを追う気にすらならなかった。
 ただ、ぼんやりと息をしていた。
 辛いような気もしたし、彼女といない時はそれが常だったから気にならなかった気もするし。
 そもそも俺は、そういった感情を拾うのが不得手だった。
 だから、そのまま。生きてこれた。
 あの日から、ぼんやりと生きてきた。
 ………あの日、あの瞬間まで。生きていられた。
 あの日。
 彼女に出会うまで、生きてきた。


 鉛筆の走る音がカリカリと響く。作品のためのデッサンだ。最近色々とあるが、定期的に作品は出しておかないと。色々と、まずい。これで生計を立てる予定があるのかと聞かれると、迷いがあるが。それでも、一度勉強しなおしその教師という手もある。
 そういう手もある、と考えていることに気づいて、少し驚く。そうか。俺は案外彫刻を続けたいと思っているのか。と。
 いや、しかし。
 このままいくと、宗教起こして救世主やらなきゃいけなくなるんだよな。俺。
 カリカリ。ガリガリ。固い音に混じって、穏やかな寝息が響く。
 穏やかな寝息の主。死んだように眠る女性が、それを望んでいるのだから。このままだとそうなる。
 …良く寝ているな。本当に。
 確かに「眠ければ寝てもいいですよ」とは言ったけれど。横たわる姿のデッサンが欲しかったので、横たわってもらって。眠くもなるだろうなと、そういったけれど。
 なんというか、なんだろう。あまりリラックスされるのも、どうなのだろう。

 どういえばいいのだろうな。そう。ときめいてほしい。落ち着かない気分でいてほしい。ハラハラしてほしい。己がそうであるように。
 うん、これだな。とてもしっくりくる。
 いやしかし、安らいだ気持ちでいてくれるならそれはそれでいい。
 問題は、リラックスしすぎというか。「こちらを大して気にしていないこと」が問題というか、不愉快だ。
 ……というか、この女。どんなことなら気にするのだろうか。
 どうにもマトモな感性が焼け落ちてる感があるというか、動じないというか。そこが愛らしいと思っているが。本当、なんだかな。
 何を考えているかよくわからないから、取り入りずらい。
 満たしてしまいたいのだ。他のことが見えないように。どこにもいかぬように。
 ああ、でもなあ。
 どうやら不幸な生い立ちと境遇にあったらしい彼女は、なにやらよく分からないロジックで動いている。
 このままうまく立ち回れば、それなりに信頼を勝ち得るのは簡単な気もする。
 けれど、それでは意味がない。
 この女は幸福に意味がない―――いや。不幸の中から拾い上げるんだったか? ともかく、幸福に興味がなさそうだが。
 それでは、俺は困る。
 いつかこの女が人並みに幸せを享受できるようになった時、別のところにいかぬかと。不安が残る。
 困るのだ。不幸しか知らないのでは。
 もう少し、幸福とやらを受け入れて。その上で選んでもらわないと―――ちっとも安心できない。
 そう、今度こそ逃がさない。どこにもやらない。
 閉じ込める気など、今のところないけど。
 どこかに行ったり、逃げたリは―――嫌だな。とても。

 カリカリと鉛筆を動かす。紙の中になら、人だって容易に閉じ込められる。
 死人を閉じ込めることすらできる。生者を閉じ込めることもできる。
 けれどそこに体温がなく、触れてもむなしいだけ。
 今度はそれだけでは嫌だと思う程度には、俺はマトモに恋をしているらしい。

 死神…前進のためには一度すべてを破壊する必要があるという判断などを現す。終わりを告げるカードであり、再出発を告げるカード。
 人生やんわりと崖っぷち。大征君。なにが崖っぷちって惚れた相手はとても電波だ。でも今のところうまく(?)いっている。本当どうしてこうなった。本当どうしてこうなった! たのしいからいいけどさ!
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