吊るされた男

 自分が咳き込む音で目が覚めた。
 吐き気がする気がして口元を抑えれば、濡れているのが分かった。そうか。涙が変なところに入ってむせたのか。
 納得すると、待ち構えていたように吐き気が強くなる。とっさに閉じた瞼の裏には、赤い。血で濡れたアスファルトの幻が浮かんで消えた。

 なるべく足音を殺して仕事部屋を出る。リビングの一角、彼が眠る方を見る。こんもりと小さな人影が規則正しく寝息を立てている…ように見えるけど、どうなんだろう。
 ルカさんの親戚…ということにして引き取ったこの子。本当なら寝るのも必要ないのだろう、人ではない同居人。愛しい養い子。…私よりもよほど聡明で、危ういほどに真っ白な子供。
 顔を見てると胸があったかいけれど。まだ吐き気がする。けど吐いてはいない。それなのに喉が少し痛い。で、顔がこの有様。…また泣いてたんだろうなあ、私は。
 また、そう。まただ。
 ずっと平気だったのに、この子と暮らす少し前から始まった。一度吐き出した後悔は、随分たやすく目から漏れる。大体冬樹さんのせいだ。感謝はしているけれど。
 幸い、この子と寝ていると見ないのだけれど。仕事が立て込んで、夜遅くまで色々やって…リビングじゃなくて仕事部屋の方で寝ていると、悪夢を見て泣いていることがある。よく覚えていないけれども……血にぬれたアスファルトのことは、たまに覚えてる。
 だから、あの時なんだろう、夢に見ているのは。赤い血は吸い込まれることなく道路に広がって、横眼には真っ赤な髪が鮮やかで。怖くて、悲しくて、苦しくて、死にたくなかったあの時。あるいは、目にはしなかった光景でも見ているのか。たくさん血が流れて。きっと痛かったのだろうと、泣くこともできなかったあの時のことでも。
 我ながら未練がましい…というか。忘れたらいいのになあ。忘れられるわけもない。覚えていても、償う気はないくせに。それでも、忘れるのは無理だ。
 洗面所でなるべく静かにタオルを濡らして顔をぬぐう。灯りをつけていない洗面台の鑑の向こうの顔色は、悪い。
 あの夢の―――あの事件の頃からだなぁ。色んな人が死んだり、殺したり、色々見るようになったのは。
 別に因果関係はないだろう。たまたまだ。きっと。深入りするようになったということも…あるのかなぁ。どうだろう。あの頃より物騒な知り合いや友人が増えたけど、別にそれは関係ないし。
 でも、たまに思うのだ。
 あの時。朱雀野連といたあの時。彼のしたことを肯定したら今こんな夢を見ないだろうと。はっきりと否定しきれたとしても同じだ。全部あの人のせいにして、きっと夢なんて見ないのだろう。
 どちらも選ばず、そのくせあの人のことは非難した結果が、これなのかな。
 それはダメだと思った。嫌だと思った。痛いと思った。―――けれど、他の手段など。自分と周りが危なくなる方法しか浮かばずに、どちらも選べなかったあの時。
 あの時、きっと私は今までのままではいけなかった。
 あれが最後の日常と非日常の境目。どちらにを選ぶのか、はっきりするべきだった。
 選べば、変わった―――成長したのだろう。どういう方向化は知らないけど。
 ああ、でも。今もその途中なのかな。私はまだ境目にいるのかな。
 今も宙ぶらりんな私は、いつかまた。どちらかを選ぶことになるのだろうか。

 数度、選んだ気もするのだけれども。
 ある時は、既に終わっていた。子供が泣いて。できることなど、ただ。ワガママにつきあってくれた変な男性と、その子と。一緒に帰ってくることだけだった。
 ある時は、結末を決めたのは違う人。もういない優しい女性。二度と会えない探偵さん。彼女が最後まで正気を保ち手を伸ばし続けたから、幸福な終わりが待っていた。
 ある時も、結末を決めたのは違う人。違う、そうじゃない。私はあの時、見捨てたんだった。私は見捨てて、諦めて。諦めなかった彼が幸福な終わりを呼び寄せた。
 ある時は―――状況に流された。気づいたときには詰んでいたから、どうしよもないと思うのだけれども。それでも、自分の命を天秤に乗せた。親友が死なずに済むなら他のことはどうで良いと、軽率に。そうして一人意識を失って。見たのは泣いている親友と、ゾッととするほどボロボロになった友人だったけれども。
 うん。数度選んだけれども。やっぱり、同じところに戻ってきた。
 人が困っているなら力になりたい。危なくても別にいい。けれども死ぬのは怖くて。……誰よりもなによりも、三鷹巴が生きていればそれでいい。
 彼女が怒っても、泣いても、悲しくなっても。生きていてくれたら、それでいい。
 …本当は。人の命にこんな風に優先順位つけてることなんて、気づきたくなかったけど。
 きっとあの日に戻っても同じことを選ぶけど。何度でもあの路地に走るけれど。でも―――気づきたくなかったな。
 言われるほど善人だと思ったことないけど。……突きつけられた本心は、いまだに嫌になる。


 けふ、と小さく咳が出る。吐き気がする。でも、吐かない。こんなことでイチイチ吐いていたら喉が潰れる。
 泣いても、悲しくなっても、怖くても辛くても、生きていたいのだから。吐いている場合ではない。
 じっと目を閉じると、色んな光景がぐるぐると回る。目が回る。
 いつまで回っているんだろう。きっとずっと回っているんだろう。助けてほしくは―――ないな。別に。こういうことでは。
 だから、折り合いをつけないと。結局どっちにも行けなかった私だけれど、折り合いだけはつけておこう。

 最後に目元を冷やして、リビングに戻る。
 布団にいるあの子の姿勢は変わっていない。やっぱり気づかれているのかもしれない。でも、いつも静かに眠る子だから、起きていないのかも。
 …そういえば。
 この子の手を取ったのは、私のやったことか。
 この子が生きるのを望んでくれたからこそだけれども。ともちゃんと、他のたくさんの助けがあってこそだったけれど。それでも、この子の一件の時は。最後まで正気でいられたな。
 ……正気?
 正気では、ないかな。あの日の私達が正気であったら、この子はきっとここにいないんだろう。
 なら、選べたのかな。やっぱり変わっているのかな。私も。
 なにしろ時間がたったから。ともちゃんが結婚するくらい。ともちゃんがちょっと柔らかくなるくらい。うん。あれから色々あったし。相手は―――いやもう、何も言うまい。彼女が幸せならそれでいい。笑う顔、全然想像できないけど。奥さんの前でくらいはきっと笑うんだろう、うん。

 すやすやと眠る―――眠っているように見える子供の顔をじっと見る。
 健やかに見える。
 穏やかに見える。
 私には、この子が苦しんでいても気づける聡さがない気がするけど。

 それでも、願おう。できるかぎりのことをしよう。
 今日も生きている君の人生に、少しでも選択肢が増えるように、多くの知識を。
 飢えることくらいはないように、やりたいようにできるように、多くのお金を。
 私ができるなにもかもを、君に。
 そして願わくば―――出会いを。
 楽しさを共有できる出会いを。嬉しさをもたらす出会いを。迷った時に支えてくれる出会いを。悲しい時に寄り添ってくれる出会いを。
 …いつか道を誤った時、声をかけてくれる出会いを。折れてしまいそうなときに傍にいてくれる出会いを。
 そんな出会いがあるように、色んなところに連れて行こう。まだ手が引くのがいる必要があるうちは、いくらでも手をひくから。

 私はもう間違えてしまったけど。誰がなんて言ってもあれは間違いで。いつか報いとして、首を締まるかもしれないけれども。
 それまでに、君がもっと笑うといい。
 私でも、ともちゃんでも、ルカさんでもない人の前で。たくさんたくさん。当たり前みたいに。
 泣いたり笑ったり怒ったり、たくさん。たくさん、生きようとしてくれたら。きっととっても幸せだな。

吊るされた男…中崎慧香。二つのなにかの間で望んで縛られた吊るし人。死刑囚・刑死者。通過儀礼に挑む者との解釈も。努力が報われるかは位置次第。
 男じゃなくて女だけど。縛られてるからいいかな、って。やせ我慢も似合うし。
 色んな通過儀礼というか選択の後にようやく報われたのかもしれない人。でも「いつかこの子も人生辛いかも」とおびえてもいる。臆病な人。そしてずっと思ってる。「助けてくれるならあの子を助けて欲しかった」「誰でもいいからなんでもいいから」「生きていてほしかった」だから生涯報われない人でもある。
 そしてとても幸福な人でもあるのでしょう。愛する人が現在とても幸せそうです。お互い隠しごといまみれているけれども。
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